2020年5月5日火曜日

村上海賊の戦いを描いた絵図 おうちで村上海賊”Murakami KAIZOKU” №.8

本日はこどもの日🎏

毎年ゴールデンウィークは、甲冑・小袖の着付け体験や折り紙で兜を作るコーナーで大賑わいですが、今年は休館中😢

終息後はご家族でぜひ着付け体験を😊





さて、もう8回目になりました「おうちで村上海賊」。

M担当回はずっと古文書だったので、ちょっと別のものを……

今回ご紹介する資料はこちら!

個人蔵(村上海賊ミュージアム保管)
※画像の二次利用はご遠慮ください
🙇

こちらの資料は、昨年(2019年)寄託していただき、新たに収蔵した絵図です。


この絵図、何が書かれているか分かりますか?


画面右下の方に何かがたくさん描かれていますね。


一部拡大してみましょう。




描かれていたのはたくさんの船ですね。

「村上」「乃美」など、船の近くに書かれている名前は船に乗っている武将の名前です。

武将の名前の他には、「大坂」「難波」「木津」などの地名も見えます。


このたくさんの船たちは一体何をしているのか。


香川元太郎さんによるイメージ画

この画像、おうちで村上海賊№7でも出てきましたね。


№7で「ほうろく火矢」が使われていた戦い

 第一次木津川口合戦

を描いた絵図なのです。


簡単に説明すると、

当時、織田方の軍勢に包囲され籠城中の石山本願寺に兵糧を運び入れるため、毛利氏は水軍を大坂へと派遣。
この毛利方の水軍に、村上海賊三家(能島・来島・因島)も協力しています。
しかし大坂湾の木津川河口では、兵糧の運び入れを阻止しようとする織田方の水軍が守りを固めていました。
これを突破しなければ兵糧を入れることはできないため、毛利方の水軍と織田方の水軍が木津川河口で激突!

というのが第一次木津川口合戦です。

№7でも説明があったように、「ほうろく火矢」を用いて織田方の船を焼き崩すなどした毛利方が勝利しました。

『村上海賊の娘』の題材にもなった戦いです。




村上海賊の戦いを描いた絵図は数が少なく、とても貴重な資料です
※他には「豊前今井元長船戦図」などがよく知られています。


さて、もう一度絵図全体を見てみましょう。
※最初に載せた画像(本来の天地)は地図の西が上になっているので、見やすいよう北を上にしました。




①                    
天正四年七月十五日未割昼過南風 ※「刻」ヵ
    粟屋右京大夫元信
    児玉内蔵大夫元助
    乃美兵部丞宗勝
    井上伯耆守春忠
    井上民部大輔元成
    村上弾正忠景広
                     

    九鬼右馬允(嘉隆)
    間鍋主馬兵衛尉
    沼野伊賀守
    寺田又右エ門尉生家
    杦原兵部丞
    鎌大夫
    鎌鹿目介
    野口
    小畑                     

文字が小さいので、地名や名前などを地図上に大きく示してみました。
※色分けは、地名毛利方織田方としています。

色分けしてみると、木津川の河口を織田方の船ががっちり固めていることが分かりますね。



ここで、別の木津川口合戦に関係する資料も見てみましょう。



まず1つ目。

「村上元吉外十四名連署注進状」※原文はこちら『毛利家文書』338

注進状(ちゅうしんじょう)」というのは、今でいう報告書のようなものです。

この注進状では、村上元吉ほか14名の毛利方の武将が署名し、木津川口合戦についての報告を行っています。

いつものように情報をまとめると、

日付:天正4年(1576)7月15日
差出:(木津川口の戦いに参加した武将たち)
   木梨又五郎元恒、村上新蔵人吉充、生口刑部丞景守、
   児玉内蔵大夫就英、富川平右衛門尉秀安、村上刑部少輔武満、
   粟屋右近允元如、井上又右衛門尉春忠、包久少輔五郎景勝、
   桑原右衛門大夫元勝、村上少輔五郎景広、香川左衛門尉広景、
   村上河内守吉継、乃美兵部丞宗勝、村上少輔太郎元吉
宛名:(毛利・吉川・小早川氏の奉行人たち)
   児玉三郎右衛門尉(元良)殿
   児玉 東市助(春種)殿
   岡和泉守(就英)殿

本文を要約すると、


  • 去る12日(=7月12日)、毛利氏の船団は岩屋(淡路島)を出発して、和泉国貝塚まで渡り、紀州の雑賀衆と合流。
  • 翌日(=7月13日)、堺津・住吉方面・木津川河口の様子をうかがってみると、織田方の船は、「勢楼」(=高い櫓)を組み立てた大船の左右に200余艘を配置し、河口には「かし」(=船をつなぐために水中に立てる杭や竿)を渡していた。これでは戦わずには兵糧を運び入れることはできない。そのため、雑賀衆と相談した後、織田方を襲撃し、すぐに追い散らした。
  • 織田方の「かこい舟」(=乗っている人を守るために装甲された船)には、和泉・河内・摂津国の陸上の主だった者たちが乗っていたので、13日から14日の早朝までにことごとく討ち果たし、大船も残りなく焼き崩しました。(以下略)

注進状に書かれていた地名や移動などを書き入れてみました。

織田方の船の表現も見ておきましょう。




2つ目。

『信長公記』巻九 国立国会図書館デジタルライブラリー

『信長公記(しんちょうこうき)』というのは、織田信長の事績を記した軍記。筆者の太田牛一は信長の家臣です。

内容を要約すると、


  • 7月15日のこと。中国安芸のうち、能嶋・来嶋・児玉大夫・粟屋大夫(元信)・浦兵部(=乃美宗勝)と申す者が、7・800艘ほどの大船で大坂まで行き、兵糧を(石山本願寺に)入れようとした。
  • それに立ち向かった軍勢は、真鍋七五三兵衛・沼野伝内・沼野伊賀・沼野大隅守・宮崎鎌大夫・宮崎鹿目介・尼崎の小畑・花隈の野口。こちらも300艘ほどで出ていき、木津川河口を塞いだ。
  • 海上の戦いでは、毛利方は「ほうろく火矢」というものを作っており、織田方の船を取り囲んで(ほうろく火矢を)くりかえし投入れて焼き崩してきて、織田方は多勢に無勢で敵わなかった。
  • 真鍋)七五三兵衛・(沼野伝内伊賀&大隅守・(宮崎)鎌大夫&鹿目介・(花隈の)野口・(尼崎の)小畑(花隈の)野口、その他、主だった者たちが討ち死にした。



出ました「ほうろく火矢」!
さきほどの注進状と併せて見ることで、毛利方の攻撃方法がわかりますね。



次に、今まで見てきた資料の性質を見てみましょう。

  • 「村上元吉外十四名連署注進状」は、7月13日~14日早朝にかけての戦いの報告を2日後の15日にしたもの。差出は合戦に出ていた当事者。
  • 『信長公記』は、織田信長の家臣・太田牛一が信長の事績を記した軍記。
  • 「難波船軍図」が書かれたのは江戸時代。


歴史資料を扱う際は、常に「いつ」「誰が」書いたものかに注目します。



さて、上記を踏まえて今回の問題です。


「難波船軍図」、「村上元吉外十四名連署注進状」、『信長公記』それぞれの記述での記述の違いを探そう!!

ヒント:出てくる人物名と日付に注目!(太字にしてます)

今回は4択ではなく、ちがい探し😊

日本遺産「村上海賊」ツイッターにリプライで自由に回答してください!
(※こちらからの返信はできません、ごめんなさい🙇)


M