いわゆる「和船」の研究は、石井謙治さんなどの造船史研究者によってリードされてきました。1983年に発行された『図説和船史話』(至誠堂)は我々にとっては必携本。現存する模型や絵図、そして江戸時代の兵法書などから当時の姿ができる限り復元されています。
これまでの研究にしたがって、和船の構造を説明しましょう。
まずは、この図をご覧ください。
中世でも古いタイプの和船は、西洋の竜骨(キール/船底の背骨のような材)を持つ構造とは異なるもので、一本の木を刳り抜いた船底材に棚板を取り付けた「準構造船」と呼ばれるものでした。
そして遅くとも16世紀の初め頃には、この船底の刳船材を「航」(かわら)と呼ばれる板材に置き換えた船が出現すると言われています。これがいわゆる「構造船」です。
じつは、私Kがずーっと気になっていることがあります。
大友氏VS毛利氏(村上氏)の船戦の様子を描いた「豊前今井元長船戦図」という絵図が存在しているのですが、それには村上海賊側の武将の名前とともに、次のように船の数が記されています。
兵舩八百艘
丸木舩四百艘
丸木舩??と聞くと、縄文時代以来のそれを思い浮かべてしまうのですが・・・ひょっとして、準構造船のこと???などと妄想しています。
まったくの思いつきなのでまだ仮説とも言えないのですが、なぜわざわざ丸木舟と記されているのか、気になって仕方ありません。
すいません。余談でした。
「豊前今井元長船戦図」(大分市歴史資料館蔵)は、村上海賊ミュージアムで写真パネル展示しています。またの機会にご覧くださいね。
さて、本題の戦国時代の船の話。
こちらが展示風景。
長年にわたる造船史研究によると、戦国時代の船は大・中・小の3種類に分けられます。村上海賊がお好きな方は、ご存じですよね。
写真手前から安宅船(あたけぶね)、関船(せきぶね)、小早船(こばや/こはやぶね)です。
一つずつ紹介しましょう。まずは安宅船。
安宅船は、垣立(かきたつ)と呼ばれる防御板で囲まれた箱型の構造になっており、水夫(かこ/漕ぎ手のこと)は、この垣立の中に隠れます。総矢倉造りなどと呼ばれています。
上の部分に建物があるのが特徴で、前回紹介した木津川口の合戦では、古文書に「勢楼」とありましたね。「勢楼」は、「井楼」とも書き、城などに建てられた高層の櫓(やぐら)のことを言うそうです。有名なのは『肥前名護屋城図屏風』に描かれた大安宅船の絵です。画像を掲載できないので簡単に紹介すると、船の上に「城」が乗っている、という表現になっています。
船体上の建物に突き刺さっている長い棒は「帆柱」です。
風や潮の流れを巧みに利用していたことは想像に難くありませんが、人力による推進も必要不可欠でした。使用したのは櫂(かい)ではなく、櫓(ろ)という長い棒。※あとで動画があります。
この垣立の下にずらーっと櫓が並びますが、その数は50~160丁(櫓の単位は「丁」(ちょう)と言うそうです)ととも言われています。船体の長さは20~30mとも言われていますが、確かではないようです。
水夫は船内にいますし、これだけの数の櫓をさばくとなると、日ごろの鍛錬が必要になります。
銅鑼や太鼓、あるいは統率する人の声によって、漕ぎ分けていたのでしょう。
ちなみに東京都八王子市に現存している安宅船模型(東京都指定文化財)は、櫓が50丁に満たない小型タイプのようですね。
文献研究※によると、元亀4(1573)年に織田信長が琵琶湖岸の佐和山の麓で「おびただしき大船」を造らせたとあり、その翌年には、九鬼嘉隆に「あたけ舟」(『信長公記』)を作るよう命じたとされています。
天正4(1576)年、荒木村重に宛てた織田信長黒印状に「安宅船」(「妙覚寺文書」)とありますし、先のブログで紹介された木津川口合戦における「太船をば勢楼まで組立て」(「毛利家文書」)も同じ年です。
そして毛利氏や小早川氏はやや遅れて建造を開始したようです。信長方の安宅船を見て建造を決断したのでしょうか。
※詳しくは山内譲先生のご著書『中世の港と海賊』(法政大学出版局、2011年)をご一読ください。
一方、安宅船が信長周辺で登場したという説に対し、いやいや、それ以前の永禄年間にはすでに東日本で安宅船が定型化しており、それを信長が瀬戸内海世界へ取り込んでいったのだ、という魅力的な説※も近年発表されています。
※家永遵嗣「後北条領国における長浜城と安宅船」『国史跡長浜城跡整備事業報告書』(沼津市教育委員会、2016年)
面白い!
ただ、戦国時代最強の軍船!などと言われていますが、じつは弱点が・・・
船首まで幅広の箱型構造なので、速力や機敏性に欠けるという・・・
そして、波や風に弱いという・・・
当時の伊予国守護、河野通直も鹿島城(松山市)への攻撃の際、このことを嘆いています。
「夜前の風波安宅心元なく候」(『安芸白井文書』)
鹿島城跡↓
安宅船に対し、関船や後に紹介する小早船は、当時の文献や絵図ではほとんど登場しないので実態がよくわからない部分が多いのも事実です。
それを前提に、造船史研究による見解を紹介しましょう。
関船は海上の関を破る船を追撃することから名付けられたという説があり、スピードを上げるために船体が細長くなっているとも言われています。
それから積荷を運ぶ船という説から「積船」と称することもあるとか。
これも総矢倉造りで、前回のブログ木津川口合戦では「かこい舟」として登場しましたね。
櫓は30~40丁と言われています。長さは・・・よくわかりませんが15mほどと言う方も。
安宅船と違って高層の櫓(やぐら)は建っていません。
ちなみに、東京都八王子市には関船の模型もあります。
最後に小早船です。
近世初期の「武家万代記」に「小隼」という表現が見られるものの中世の史料には出てこないようです。一般的には、小回りとスピードを重視しており、連絡や偵察などに使われたと考えられています。
村上海賊ミュージアムの屋外には復元船が展示されています。
これは平成2年(1990)に、小佐田哲男先生(東京大学名誉教授)の監修の下、宮窪町が復元を行った第1号船で、全長8.4m・幅2mで、長さ6.6mの5丁櫓を搭載しています。ただこれは小型のタイプのようで、小早船の櫓の数は20~40丁櫓とも言われています。
ちなみに、村上海賊ミュージアム前の海で、毎年7月に「水軍レース大会」が開催されています。
復元された小早船による競漕ですが、和船文化の継承し、村上海賊の歴史に親しむことを主な目的としています。
残念ながら今年の大会の中止が発表されました。やむを得ません。
その代わりに、この映像をご覧ください。櫓(ろ)の操り方もイメージできると思います^^
村上海賊ミュージアムのボランティアクループ「せんどうさん」の雄姿です。
12名で1チーム。興味のある方は来年ぜひ参加してみてくださいね^^燃えますよ。
戦国時代の船の研究は、模型、絵図、後世の史料をもとに進展してきました。
しかし、当時の文献にはその構造や役割などは詳しく記されておらず、実際はわからないことだらけ。まだまだ研究の余地がありそうですね。
そして考古学的にはどうか・・・
長くなってきたので、本日はこのくらいで。
明日はもっと詳しく紹介します。
おっと、問題問題。
Q この3つの船の中で、別名で「海賊船」と呼ばれたと言われているのはどれでしょう。
①安宅船
②関船
③小早船
こたえは明日!
K