という問題でした。
こたえはこれ↓
②関船
でした^^
1603年に刊行された『日葡辞書』という書物があります。
これは、日本イエズス会が刊行したもので、原題の日本語訳は
「ポルトガル語の説明を付したる日本語辞書」というもの。
この辞書については、『邦訳日葡辞書』(岩波書店)が刊行されており、我々でも当時の用語が簡単に検索できます。
この辞書で、セキ(関)を引いてみました。するとこう書いてあるのです。
Xeqi.セキ(関)
道路を占領したり、遮断したりすること。また、通行税〔関銭〕などを取り立てて、自由には通行させない関所。また、通行税〔関銭〕を取り立てる人々。(中略) また、海賊。Xeqibune.(関船)海賊船。(『邦訳日葡辞書』より)
当時、関=海賊、という認識があったことがわかります。
室町時代の古文書をみると「予州野島関立」と記されているものがあり、関あるいは関立は海賊のこととこれまでの研究では考えられています。
関船なので、海賊船。
ということで、こたえは②になります。
模型、絵図、近世の兵法書、中世の古文書などからわかる船のことは、前回の記事で簡単に紹介しました。では、考古学的にはどうでしょう。
残念ながらまだ船体は確認されていません。
能島城跡の周辺の海底から揚がる村上海賊時代の鍋や皿などがあります。
これらは船の上で使っていた用具の可能性があるでしょう。
図録『瀬戸内海・中世沈没船の謎』(今治市村上水軍博物館、2013年)より |
そして近年、「碇石」と思われる棒状の石が、宮ノ窪瀬戸周辺の海域で次々と引き揚げられました。
長さは55~90㎝くらい。
当時の碇(イカリ)は木製で、それに棒状の石を取り付けておもりにしていました。
この石と思われるものが発見されたのです。以前、水中考古学の専門家と議論したところ、これは小型船の碇石ではないか、という見解になりました。
しかし、これだけ単体で引き揚げられたので、まったく年代はわかりませんし、わりと新しい時代までこのような碇が使われていたという話もあります。
ただ「このようなタイプの碇石」は、中世の時代にも存在していたようです。それを示すのが、小豆島の近くで発見された「水の子岩海底遺跡」です。
船体は見つかっていませんが、海底には室町時代頃の備前焼が大量に沈んでいました。そしてその中には、宮ノ窪瀬戸で引き揚げられたものと類似した形、大きさの棒状の石が12本、一緒に沈んでいたのです。そしてこれらは碇石ではないかと考えられています。
詳しくは、以前開催した特別展の図録『瀬戸内海・中世沈没船の謎』をぜひご覧ください!
この図録。Kの力作ですが、あまり売れていません(泣)
在庫はまだありますし、郵送でも購入できますのでホームページをご覧ください^^
ちなみに、岡山県立博物館による水の子岩海底遺跡研究から推定された当時の碇の姿を、地元の漁師で当ミュージアムのパートナー(ボランティア)の方が再現してくれました。
しかし、漁師は納得がいかないようで、「ワシならこう作る」と。
もう一つ、船に関する出土品を紹介します。それは「釘」(くぎ)です。
能島城跡の発掘調査で出土した鉄製品のなかで圧倒的に多いのは「釘」。
ひと口に「釘」と言っても大きく2種類あると考えられていて、一つは建築用、もう一つは船釘です。
建築用釘と船釘をどう見分けるのでしょう。
例えば山口県の上関城跡の研究などで示されていますが、ざっくり言えば、断面が正方形に近いものが建築、平べったいものが船釘、なんだそうです。
うーん、でも。
私Kは、この見分け方が正しいのかどうか、きちんと根拠をもって示すことができるのかと言われると自信がないため、まだ能島城跡の見解を示せずにいます。まずは出土品の事例の収集から始めないといけないですね。
仮に平べったいものを船釘とすると、このタイプはたくさん出土しています。
一番、残存状況の良いものがこちら↓
仮に伸ばすと、手のひらサイズより少し大きいくらい。
扁平な鉄の棒の、頭の部分は少しL字状に屈曲していて、先が大きくU字に折れ曲がっています。
民俗研究によると、和船に使う釘は打ち込むのではなく、あらかじめ鑿で穿たれた釘道と呼ばれる穴をあけ、それに差し込むというもの。縫釘(ぬいくぎ)、通釘(とおりくぎ)、皆折釘(かいおれくぎ)があるそうです。
詳しくは、四国地域史研究連絡協議会編『「船」からみた四国』(岩田書院ブックレット、2015年)
この釘がどの種類にあたるのかは、まだわかりません。このU字の折れ曲がりも使用時のものなのか、後世のものなのか。
村上海賊の造船所などが発見されると面白いのになあー(能島の隣の鵜島には、造船所があったという話がありますが)。と思う今日この頃です。
戦国時代の船の研究。
実態の解明は、これからですね^^
K