2020年5月3日日曜日

ほうろく玉の謎 おうちで村上海賊‟Ⅿurkami KAIZOKU" №7

今治市内の民宿などで出される「法楽焼」・・・美味しそうですが、いまは我慢ですね。


この料理は、「ほうろく」という焼き物の大皿に鯛やサザエ、エビを盛り、もう一つのほうろくで蓋をし、蒸し焼きにしたものです。

二つの素焼きの器の口を合わせる・・・
そう法楽焼は、村上海賊の武器である「ほうろく玉」にちなんだ料理と言われています。
それを示す史料はありませんのであくまで伝承なのですが、新鮮な魚介類を豪快に盛って蒸し焼きにするその姿は、海賊の料理と言われても違和感はないでしょう^^


さて、今日の話題は「ほうろく玉」です。
繰り返しになりますが、村上海賊の武器として有名です。
「炮録」、「焙烙」などの字があてられますが、「信長記」には「ほうろく」と平仮名で記されています。

一般的には、陶器の中に火薬を詰め、ハンマー投げのように振り回し、敵の船に投げ入れる武器とされています。

ほうろく玉を使った海戦を再現した様子はこちら↓


※いつものお願いですが、画像の二次利用はご遠慮くださいね。以下同じです。

どうしてこのような姿が再現できるのか、というと一つは先ほど紹介した「信長記」の記述によります。

「海上者ほうろく火矢と云物を拵、御身方之舟を取籠、投入〱焼崩、多勢に被取籠不叶、」(『信長記』より) ※〱←くりかえしのこと、したがって「投入れ投入れ焼き崩し」

ざっくり言うとこんな感じでしょうか。

「海上では、ほうろく火矢という物を作っており、味方の船を取り囲んで、(ほうろく火矢を)くりかえし投入れて焼き崩し、多勢であったため、敵わなかった」


おそろしい武器ですね。
手りゅう弾のようです。


いわゆる通説を紹介してきましたが、謎があります。
それは「実物」が現存していないこと。そしてそれらしき焼き物が遺跡からも出土していないことです。


じつは、江戸時代の兵学者は必ずしも焼き物とは考えていなかったようです。


江戸時代後期の兵学者で砲術家の森重都由(もりしげ・すべよし)によって編纂された『合武三島流舩戦要法』という兵法書には、ほうろくと言っても「投げほうろく」と「ほうろく玉」があり、前者は「厚紙」、後者は「鉄・鉛」で作られた球体の武器と紹介されています。

これに陶器を加えると、ほうろく玉の材質は、紙・金属・陶器の三種類の説があるということになります。ミュージアムでは陶器と金属をイメージした模型を作って展示しています。




球体の中には、焔硝・硫黄・松脂・樟脳・炭を混ぜた焼薬(いわゆる「黒色火薬」というもの)を小玉に丸めていくつか詰め、その隙間にもこの焼薬を入れたといわれています。

したがって、中身はまっくろです。
ただ、それだとわかりづらいので、レプリカの断面には〇を描きました。

発注したときにKが作った設計図はこちら↓



ただ・・・
能島城跡の発掘調査では、このような球体の土器片や金属片は確認できませんでした。
出土した破片の数は7万点を超えますが・・・。

しかし、昭和初期に能島城跡の調査で発見された土器の解説には、「炮録團(ほうろくだま)が無数に発見される。」(鵜久森経峰著『伊予水軍と能島城趾』昭和14年)とあります。

ここで問題です。
当時は、生活につかうあるものの破片が「ほうろく玉」の破片と考えられていました。

そのあるものとはいったい何でしょう。


①鍋や釜

②すり鉢

③お茶碗

④徳利

K