切り立った崖の上に城郭は形成されており、能島城の海岸部分にある切り立った崖のように堅固さが伝わってきます。
この岸壁はコンクリートで覆われているのか岩盤の感じが出ています。能島城の周囲岩盤は雨水や波浪による浸食が進んでいることから、保護管理の上でも参考になりますね。
但し、能島城の場合は色彩を現状の岩盤に近い色合いにしないといけませんが。。。
大手門にある解説板によると、臼杵城は元々 「 丹生島 (にゅうじま) 」 と呼ばれ、切り立った崖の周りは海に囲まれ、能島城のような海城だったようです。
臼杵城が中世城郭として利用され始めた年代は明確ではないようで、大友宗麟によって永禄5・6年(1562・1563年)に築城されたとする説が有力だったそうですが、近年は弘治年間(1555~1558年)以前に利用開始の説が有力視されています。
大手門前のお堀では、能島城のように「アヒル」はいませんでしたが、「カモ」が親子仲良く列をなして泳いでいました。
大手門近くのトイレには臼杵城の概要地図と現況写真が載った看板が設置されており、初めての人でも、どう攻め込んでいこうかと考えれる設定になっているのは、パンフレットなどを持ち歩かない? 現地散策派の人にとってはありがたいものですね。
切り立った堅そうな岩盤を切りぬき通路をクランク状にし、攻めにくく守りやすい構造としています。
解説看板によると、城への登城口は合計3箇所あり、陸上に接続される2箇所、海岸に開かれた場所に1箇所あります。
特に陸上側では、登城口2箇所をつなぐ通路状の 帯郭 ( おびぐるわ ) が構築されております。
反対側は切り立っており、登城口以外には帯郭が形成されていません。
大友宗麟がポルトガルの宣教師から輸入したと伝わる有名な大砲 「国崩」レプリカ
どのあたりまで飛んで行ったかな?
城内には二の丸と本丸があり、その間に空堀と土橋があります。
江戸時代は海側の狭い郭が本丸だったようですが、大友宗麟時代には逆に海側の狭い郭が二の丸だった可能性があると記されていました。
その理由は、島の真ん中が能島城のように、今の二の丸の方が標高が高いからだそうです。
コチラは海側からの登城口。当時は船が繋留されていたのでしょうか。
本丸では、たくさんの桜が開花の準備です。(D)