陣屋跡から角牟礼山を望む。頂部付近に切り立った岩盤の崖が露出。 |
角牟礼城は、標高577m、麓との比高差240mの角埋山に築かれ、枡形虎口(ますがたこぐち)、高石垣などをもった「織豊系城郭」と呼ばれる立派なお城です。
※枡形虎口・・・枡状の四角い形に土塁や石垣を配置して、その一辺に出入口をつくる。敵が簡単に進入できないような構造の虎口(出入口)です。
角埋山の頂部は、三方を切りたった険しい岩盤が露出し、その風貌はまさに「天然の要塞」。城内は、伝本丸、二之丸、水の手曲輪(くるわ)、三之丸と連なり、斜面部には、切岸(きりぎし)や竪堀(たてぼり)など中世の山城の特徴が残っているようです。
近世の編纂資料によれば、築城は12世紀まで遡るとされますが、確かな裏付けはなく、文献史料に初めて姿を現すのは、15世紀の後半と考えられています。
伝大手門跡から伝二之丸の石垣(玖珠町教育委員会提供) |
角牟礼城と言えば、露出した岩盤の崖に連なるように築かれた立派な高石垣が有名です。
平成5~8年の玖珠町教育委員会による発掘調査などによって、特にこの高石垣に注目が集まりました。そして、この高石垣は「穴太積み」によるもので、毛利高政が入国していた文禄3(1594)年から関ヶ原合戦前の慶長5(1600)年に築かれたと考えられました。
伝搦手門跡の枡形虎口の出隅石垣。松山城や宇和島城のように、 石垣上の大木が、将来的に石垣を壊さないかと心配です。 |
1601年に入国した来島康親は、この立派な角牟礼城を居城とはせず、その山麓に陣屋と城下町を築いたというのが一般的な見解でした。その後、新しく見いだされた文献史料によって、二代藩主久留島通春の代まで城が存続し、山上に住んでいたのではないか、という説もだされています。
さらに近年、毛利高政の時代に高石垣が構築されたという説にも疑問が出されました。石垣の技術・技法の年代、文献史料の解釈、出土品の年代の丁寧な見直しが行われ、なんと、来島康親が入国した慶長6(1601)年以降に築いたと考えるのが妥当ではないか、という興味深い新説が提示されたのです。
国指定史跡とはいえ、城のすべてが明らかになっているわけではないのです。実像の解明、魅力の発信にはさらなる調査研究が必要ですね。我らが能島城も同じです。
私が最初に角牟礼城の散策を行ったのは、数年前の7月でした。
岩盤に連なっていく石垣のすごさに呆然とした記憶があります。
仕事の都合で夏にしか行けなかったのですが、山城の散策は冬場をおすすめします・・・。
玖珠町では現在、角牟礼城を中心とした文化財を活かしたまちづくりを進めており、草刈りなどの維持管理は、地元有志の「つのむれ会」の方々が行っているそうです。私も以前、会の方々とお会いしましたが、地元の文化財に対する熱意には大変驚きました。
能島城も見習わなければいけませんね。
つづく(K)
角牟礼城について、くわしくは、下記の本や論文をご参照ください。一般書店にないものもありますが、もちろん、これらは当館で閲覧できますので、ぜひお越しください。
・『角牟礼城(玖珠町文化財調査報告書12)』玖珠町教育委員会 2000年
・『玖珠町史(上巻)』自然~近世 玖珠町 2001年
・『時空を超えて 森藩誕生400年』 西日本新聞社 2005年
・『角牟礼今昔』 つのむれ会 2004年
・木島孝之「「角牟礼城高石垣-毛利高政期構築説」を問う」『城館史料学』6号 城館史料学会 2008年