今回の特別展で展示しております、
「石谷家文書」の
「来嶋落城」
と記された古文書。
この手紙が出されたのは
1583年(天正11年)3月です。
「来嶋落城」とあるのは、
前年(1582年)、本能寺の変より少し前に、
それまで河野氏に仕えていた来島村上氏の村上通総が、
羽柴秀吉の勧誘を受けて、河野氏から離反しました。
それを受けて、河野氏と毛利氏(河野氏と友好関係)は、来島城を攻撃します。
来島城攻撃には、能島村上氏も前線に参加していました、
そして、攻撃を受けた来島城は、1583年3月に落城しました。
しかし、この時に秀吉に付くという決断をしたことが、
豊臣秀吉の時代に来島村上氏が大名となり、
江戸時代にも大名家として続いていくことにつながりました。
その後の来島村上氏の歴史を考えた時に、
まさにターニングポイントと言えます。
これまで来島城の落城について、
「一着」(一段落ついた)等のような表現で、
記している文書は、
これまでも知られていましたが、
「落城」
という生々しい表現が使われているものは、
「石谷家文書」が
初
ではないでしょうか。
『村上海賊の城』という点からすると、
その部分がやはり注目されますが、
この古文書のその他の部分も、
非常に興味深いものです。
手紙が出された天正11年3月。中央の政治情勢を見てみると、
信長死後の主導権を争って、
羽柴秀吉と柴田勝家が、
バチバチと火花をちらしている時期です。
今回展示している文書でも前半部分には、
羽柴秀吉と滝川一益が交戦中であること、
それを後援するために柴田勝家が出兵したこと、が記されており、
後の賤ヶ岳の戦いにつながる合戦の様相を知ることができます。
ゾワゾワしますね!!
ゾワゾワしますね!!
中盤には、織田信長の死後、京都への復帰を目論む足利義昭の、
中国・四国の軍勢を動員して、再上洛作戦を実施する、
との壮大な計画が披露されています。
ゾワゾワしますね!!
ゾワゾワしますね!!
信長死後、頭角を現す羽柴秀吉、
再上洛を目指す足利義昭の壮大なプラン。
この時期の目まぐるしい政治状況を知ることができ、
そうした時期に来島城は落城したのだということを、
まじまじと感じることができます。
この古文書について考えているだけで、
ご飯が3杯くらい食べられそうなほど、
味わい深い史料です!
是非とも特別展でご覧下さい!!
学芸員O