会議の場所は佐島。生名島と佐島、あるいは弓削島と佐島を結ぶ橋がかかっていますので、フェリーなどを利用して車でも行くことができますが、私はいつも高速船を利用します。
車よりも速い気がするのもありますが、何よりも燧灘の景色と海城の姿を見るためです。
待ち時間が少しあったので、港周辺の景観をゆっくり眺めてみました。
やはり目についたのは、港の沖にある「九十九島」(つくもしま)。(写真)
頂部が不自然にまっすぐになっているので、よく目立ちますね。
このような形状ですので、能島城などと同様に小島全体が城であったと考えられています。郷土誌などに記された伝承によると、燧灘を見張る能島村上氏の出城で、城主は東條和泉守といい、ここで太鼓を打ち、燧灘の水軍に合図をしたので、この島の別名を太鼓島とも呼ぶそうです。
詳しいことはわかりませんが、九十九島では、過去に16世紀のものと考えられる土師器の釜、鉢、甕などの破片がひろわれています。少なくとも村上水軍の時代に、人びとが九十九島を利用していたということは言うことができるでしょう。
友浦港を出港し、次の寄港地は伯方島の木浦港。さらに岩城島の岩城港へ寄港します。岩城港のすぐ近くでも有名な海城跡を見ることができます。亀山城です(写真中央)。
亀山城は、小島ではなく、瀬戸へと延び出した鼻を利用して築かれたタイプの城です。横から見るとまっすぐの頂部には神社があります。詳しは述べませんが、往時は小さいながらも優れた防御構造を持った城だったと評価されています。
1691(元禄4)年に岩城島沖を通過したケンプェルの記録によれば、「高き岩礁の上に寺社ありて、階段にて上るべし。岸辺に立てる相重なれる二個の門はその入口なること知るべし。」とあり、寺社が亀山八幡神社で、岸辺の門は鳥居であったと考えられています。
たしかに、以前調査したときに、岩礁にあけられた2個のしっかりとした柱穴がありました。これがケンプェルの見た鳥居跡だと考えられています。
このほかにも、この「城ノ鼻」と呼ばれる先端の海岸部には、能島城と同様に岩礁にあけられた柱穴が7個ほど残っています。下は以前撮影した岩礁の写真です。岩肌に窪みが見えませんか?これが「岩礁ピット」です。
岩城島に関するある記録によれば、築城は1392(明徳3)年で、城主は村上氏であったとされています。しかし、この城についても、岩礁ピットの存在は知られているものの、発掘調査が行われていないため、年代や城の役割など詳しいことはよくわかっていません。
また、岩礁ピットにしても、鳥居跡のように江戸時代のものなのか、伝承が指すように中世の時代の城に伴うものなのかは定かではありません。
このようにこの芸予諸島には、いくつも海城跡を見ることができます。しかし、発掘調査が行われたのは能島城などごく一部の代表的な遺跡に限られていて、まだまだ多くの謎に包まれています。これらに海城についても、できることなら、まずはその歴史的な価値を明らかにして、そして将来にわたって守り伝えていければ良いなと、改めて感じさせられた船旅でした。(K)
参考文献:愛媛県教育委員会編2002『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』など