道の駅にバスをとめ、そこで待っていたのは、鎮海山の山岳会のみなさんでした。
研修会の数日前の出来事。偶然にもこの山岳会の方から、
「鎮海山城に村上水軍の幟を作って立てたいと思っている。色や寸法など、実際のものは、どのようなものか教えてもらえませんか。」
と問合せがありました。対応をした当館の村上武吉ことTが、
「参考までにサンプルをお送りしますね。ちなみに、今度、研修旅行で竹原に行きますよ。」
とお伝えしたところ、
「では我々がご案内します。一緒に登りましょう。」
と。
忠海を案内してくださった忠海地域文化伝承協議会の新本さん達もご一緒してくださりました。
本当に親切な方ばかりですね。地域の方の粋なおもてなしに、せんどうさんも刺激を受けたようでした。
伝村上元吉墓は、道の駅のすぐ近く、鎮海山の中腹にあります。
山岳会の方が綺麗に草刈などを行ってくださったようで、道の駅からもその場所がよくわかりました。
ただ、予期せぬ残念な出来事が、前日の夜に起こっていたようです。
写真は掲載しませんが、墓の周辺には土が荒された痕が・・・。そう、イノシシです。
イノシシによって周辺が荒らされ、一部の石造物が原位置から動いてしまっていました。
また十数年前の芸予地震の際も大きな影響を受けたようで、私が持っていた数十年前の写真と比べても、様子が変わっていました。
このお墓は竹原市指定の史跡になっているので、山岳会の方々は今回のイノシシ被害について、すぐに市役所の担当者へと連絡されたようでした。被害を受けたのは非常に残念でしたが、このようにボランティアで地域の方が巡視や維持管理をしてくださるというのは、非常にありがたいことです。
「元気な方は鎮海山へ登りましょう!」
山岳会の方のサポートを得て、約10名が標高約90mの鎮海山の登頂に成功しました。
鎮海山は、村上武吉・元吉が竹原に居を構えた際に築城した山城だと考えられており、市指定の文化財になっています。
賀儀城と比べても、頂部の平坦面はとても狭く、居城というよりは、見張り場などの施設があったのだろう、と地元の方はお考えのようです。頂部には遺構を傷つけないように、竹組によって砦(とりで)を模した施設が作られていました。ここに、村上水軍の幟を作って立てたいということでした。
これぞ山城、という明確な城の遺構は残存していませんが、たしかに頂部からは、竹原の町が一望できました。
竹原は、近世以降に塩田で栄えた町でもあります。山岳会の方に、往時の塩田の広がりなどを教えていただきました。
下山後、山岳会の皆さん、そして忠海地域文化伝承協議会の皆さんに厚くお礼を述べて、お別れしました。丁寧にご案内をいただき、本当に感謝をしております。
次はお待ちかねの昼食とお土産を買う時間。そして午後は、河野通直(幼名は牛福丸)の菩提寺である長生寺と、町並みの散策です。
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