2020年5月18日月曜日

おうちで村上海賊"Murakami KAIZOKU" かげちかくんのぬりえ

今日は、ICOM(国際博物館会議)が定める「国際博物館の日」ですね。

村上海賊ミュージアムは休館日ですが、おうちでも子どもたちが楽しめるように、ぬりえを作ってみました。

ぜひお楽しみください^^

K




ほうろく玉、うまく投げられるかな
 
 
 
 
 
おうちに伝わるよこぶえ
父上のようにうまく吹けるかな
 
 
 

 
 
もちろん魚もとるよ
 
 
 
 
 

出陣じゃ! 潮目をよむのじゃ!
 
 
 
 
 
 
 
 
 ほらがいはまだうまく吹けない
 
 
 

 
 エイエイ・オー!!
 
 

2020年5月16日土曜日

能島村上家伝来ののぼり おうちで四国のミュージアム「魔除け」


四国各県のミュージアムが、ツイッター等で所蔵資料などを紹介している「#おうちで四国のミュージアム」。


今回のテーマが魔除けということで、今回はこちらの資料をご紹介😊





こちらは、能島村上家に伝来する絹製の幟(のぼり)で、


くれないじしろひきりょうにかみのじもんののぼり
紅地白引両上字紋幟

といいます。 


な、長い名前……😫💦

そういう時は、分解して意味を考えてみましょう。

 色ので、引両(横線)に上字紋(㊤)がついた

ということです。

なるほど、見たまんまの名前。

大分色あせていますが、当時はもっと鮮やかな紅花色だったと考えられています。


村上海賊ミュージアムには、先ほどの画像をのせた長いものと、もう一つ短いものがあります。


短い方



さて、この幟の一体どこが「魔除け」なのか🤔??



竿に通すために輪っかになっている布部分を(ち)といいます。





そこに注目して見てみると……🔍🤔








 何か模様の刺繍が……😲!!!


この模様が「魔除け」の呪符!



江戸時代初期の軍書『甲陽軍鑑』(巻第16・44品)の中では、幕の乳について

「幕の乳へ入れる事、臨兵闘者皆陣烈在前、怨敵消滅、悪魔降伏、怨敵消滅、天地和合、皆令満足、過去現在未来、此を以て名字・仮名・実名・判まで入れるなり」

と書かれています。

怨敵消滅」「悪魔降伏」という言葉からも、乳に呪符的な性格があるんだなということが何となくわかるとおもいます。




先に載せた乳の4種類の刺繍、今回は以下のような呼び方をします。


 五芒星 

一筆書きした星形で、魔除けとして使われる紋様です。みなさんご存知、陰陽師と言えばあの人!な安倍晴明が考案したといわれ、「安倍晴明判」や「晴明桔梗」などともいいます。

 九字紋 

縦4本、横5本で9本。この線は、護身の呪文「臨兵闘者皆陣列在前」の九文字を唱えながら空中に指先で描く形を表していることから「九字紋」といいます。


この五芒星と九字紋は、魔除けとしてよくセットで用いられています。

三重県志摩地方の海女さんは、今でもこの2つの紋を魔除けとして身に着けているそうです。(「セーマン()ドーマン(九字)」と呼ぶらしい。)


 叶紋 

願いが「叶う」?


 分銅紋? 

分銅なのか、「×」なのか…🤔

「分銅」は、秤で重さをはかる時に用いるおもりです。
銀行の地図記号(⛻)でも用いられていますね。
この分銅は、如意宝珠や打出小槌などの宝を集めた模様である「宝尽くし」にも描かれているなど、縁起のいい模様の一つです。

では「×」。

江戸時代中期に伊勢貞丈が著した軍陣故実書『軍用記』の「旗之事」では、

「乳の針目は  如此にぬふなり」
「縫め ⮽ 如此するはまんじ 卍 此の心なり」

という記述があります。

旗の乳は ⮽ のように縫い、 ⮽ 吉祥のしるしである「卍」を意味しているということですね。

同じく『軍用記』の中の「幕之事」では、同じく乳の縫い目について、以下のような記述もあります。


能島家伝来の幟の乳の刺繍には、表には玉留めはありませんが、裏は転換点ごとに玉留めされているようです。



さて、刺繍された呪符をそれぞれ見てきましたが、今度はその並び順を見てみましょう。

能島村上家に伝来している幟以外にも乳に呪符を刺繍しているものはありますが、隅に「」「」「九字紋」を配し、その他の部分を「」「×」にするのが一般的なようです。



では、能島村上家伝来の幟は…?




長短共通
・3つの隅は「九字紋」
・上部の乳は、右から「」→「叶」→「

長幟
・左側の乳は、上から「叶」→「」→「」(最後は「」を飛ばしている)

短幟
・左側の乳様は、上から「叶」→「」→「


3つの隅に九字紋で、それ以外の部分は3種類が繰り返しで入れられているようですね。


この配列の意味は……?


まだまだ謎です。教えて詳しい人😭




これらのような魔除けの呪符は、幟以外にも、城の石垣や寺社の鬼瓦などでも用いられているそうです。

お城の石垣でよく刻印されているものがありますが、今回出てきたような紋様をぜひぜひ探してみてくださいね!



今回ご紹介した幟は、村上海賊ミュージアム2F、常設展示室最後の部屋「村上家記念室」で展示しております。

お越しの際はぜひ「乳」に注目してご覧ください😊


コロナ退散!!!

 M

2020年5月11日月曜日

【最終回】村上海賊の肖像画 おうちで村上海賊‟Ⅿurkami KAIZOKU" №10こたえ

元信のお母さんはどこの出身か………


※画像の二次利用はご遠慮ください🙇



分かりましたか?


正解は…


②朝鮮半島


でした!




前回に引き続き3点目は、先ほど載せた「朝鮮貴族姉妹像」


これは、元信のお父さん景親が 慶長の役1597~1598)で朝鮮半島に出陣した際、李王朝からもらった姉妹の姫と伝わる肖像画です。

姉が景親の側室に、妹が水沼という家臣の妻になったと伝わっています。




上の写真は、周防大島の村上家の墓地にある景親の側室のお墓。

正面には、側室に仕えたという垣生家のお墓が向き合うように建っています。



村上海賊ミュージアムには、景親が参戦した文禄・慶長の役に関係する古文書や持ち帰ったと伝わる資料も所蔵しています。


虎蹲砲(こそんほう)
景親が文禄・慶長の役で持ち帰ったと伝わる大筒。
虎が前脚を立てたような台座に載せられていたことが名前の由来とされています。




そして4点目。

「朝鮮貴族像」

こちらも景親が慶長の役の際、李王朝からもらった姫の一人と伝わる肖像画です。

さっきは姉妹でしたが、村上家の伝承によると、景親の側室(元信のお母さん)の方といわれています。

村上海賊が漁もしていたということは№2こたえ№3こたえでもお話ししましたが、夫人の方の肖像画もお魚を持っているのがさすがですね!!



【おまけ】

№6で、元信のお兄さん・八助は11歳の若さで早世したと書きましたが、八助のお母さんは正室。

景親の正室は、河野氏の重臣・平岡氏の女性です。

武吉のお母さん(景親祖母)も平岡氏の女性と伝えられています。

伊予国の中でも重要な位置を占めていた平岡氏と、能島村上氏は婚姻を通じて結びつきを強めていたのでしょう。





肖像画の複製や虎蹲砲は、「村上家記念室」(常設展示最後の部屋)で展示しています。

お越しの際は、ぜひご覧ください!







明日から開館再開のため、「おうちで村上海賊」は今回で最終回です😢

しかし、村上海賊情報は今後もガンガン流していきます💪

日本遺産「村上海賊」公式Twitterはほぼ毎日情報発信しているので、ぜひフォローしてくださいね😊

№1~10+番外まで、おつきあいいただき、ありがとうございました!!!


M


PS ( 'ノω')< 前回(№10)短かったのでちょっとだけ追記しました。


2020年5月10日日曜日

村上海賊の肖像画 おうちで村上海賊‟Ⅿurkami KAIZOKU" №10

休館が始まってから開始した「おうちで村上海賊」も、もう2桁に突入!!

時の流れははやいですね😅


しかし、ついに来週、5月12日(火)から開館することになりました。


とはいえ、まだまだ油断できない状況です。

県外の方は、もうしばらくお待ちください😢

皆さんにお会いできる日を楽しみにしています。




さて、今回ご紹介するのは 肖像画 


「村上海賊」は 能島来島因島 の三家がありますが、それぞれの家に肖像画が伝わっています。


因島 村上家だと、村上吉充 の肖像画。
小日向文世さんに似てると思いませんか……
あと、家紋の㊤が「よ」に見える方が因島の家紋です😊

画像は載せられないのでMの絵(以下同じ)


来島 村上家だと、村上通康・通総、来島康親、久留島通春など歴代藩主の肖像画。
さすが大名!たくさん残ってる!

村上通康

村上通総



村上海賊ミュージアムにある肖像画は、能島 村上家に伝わる4点。



まず1つ目は、当館の看板息子!(?)


※画像の二次利用はご遠慮ください🙇

村上景親(むらかみかげちか)の肖像画です。

景親モチーフのマスコットキャラクター
かげちかくん

※なぜ看板息子なのかはNo.6こたえ参照


精悍な顔立ちにたくさんたくわえたおひげ。海賊っぽくてカッコイイ😍

頭には烏帽子をかぶり、黒地に能島村上家の家紋(まるじょう㊤)のついた大紋を着し、手には扇を持っています。傍らには太刀を立てかけていますね。




2点目はNo.6に出てきた景親の次男・村上元信の肖像画。



お父さんの着ていた大紋に似ていますね。そして目もそっくり。
烏帽子をかぶり、手には中啓(閉じても先が半開きになっている扇)を持ち、景親とは反対側に太刀を立てかけています。

中啓


ところで、肖像画に描かれた人物がよく座っている畳。

畳の縁の柄でよく見るのはこの3種類。

繧繝縁(うんげんべり)

高麗縁(こうらいべり)・大紋

高麗縁・小紋

この畳縁の柄は座る人の格式を表していて、繧繝縁が一番高貴なもので、天皇や三后(皇后・皇太后・太皇太后)・上皇・それに準じた処遇の一部の人しか使用できないものです。

繧繝縁は雛飾りで男雛・女雛が座っているのが座っている畳で見たことがあるのではないでしょうか。

宮窪に伝わるお雛様(明治時代)

高麗縁は、大紋は親王・摂関・大臣、小紋は大臣以下の公卿などが使用しました。

景親と元信が座っている畳の縁はこんな感じ。

景親
元信

高麗縁の小紋の方でしょうか…?
誰か詳しい方がいらっしゃったら教えてください><



残りの2点は、元信のお母さん(景親嫁)に関係する肖像画。



さて、本日の問題です!


Q.村上元信のお母さん(景親嫁)はどこの出身といわれているでしょう?

①中国
②朝鮮半島
③ベトナム
④タイ



次回、最終回……!!!

M



2020年5月9日土曜日

「甘崎城を探検しよう!」 おうちで村上海賊‟Ⅿurkami KAIZOKU" 番外編

今回は番外編!!!

大三島の沖に浮かぶ村上海賊の海城「甘崎城」を学芸員Kさんが徹底ガイド!

初の試みで動画にしてみました😀




初めて動画を作ったので、拙かったり、画面酔いとかしちゃうかもしれませんがお許しください😓

皆さんも、新型コロナウイルス終息後、年に数回の大潮の日を狙ってぜひぜひ探検してみてくださいね!!



M

2020年5月8日金曜日

戦国時代の船 おうちで村上海賊‟Ⅿurkami KAIZOKU" №9 こたえ

Q ①安宅船、②関船、③小早船の中で、別名で「海賊船」と呼ばれたと言われているのはどれでしょう。

という問題でした。

こたえはこれ↓
 
 
 
 
②関船
 
 
 
でした^^



1603年に刊行された『日葡辞書』という書物があります。
これは、日本イエズス会が刊行したもので、原題の日本語訳は

「ポルトガル語の説明を付したる日本語辞書」というもの。


この辞書については、『邦訳日葡辞書』(岩波書店)が刊行されており、我々でも当時の用語が簡単に検索できます。



この辞書で、セキ(関)を引いてみました。するとこう書いてあるのです。


Xeqi.セキ(関) 
道路を占領したり、遮断したりすること。また、通行税〔関銭〕などを取り立てて、自由には通行させない関所。また、通行税〔関銭〕を取り立てる人々。(中略) また、海賊。Xeqibune.(関船)海賊船。(『邦訳日葡辞書』より)


当時、関=海賊、という認識があったことがわかります。

室町時代の古文書をみると「予州野島関立」と記されているものがあり、関あるいは関立は海賊のこととこれまでの研究では考えられています。

関船なので、海賊船。
ということで、こたえは②になります。



模型、絵図、近世の兵法書、中世の古文書などからわかる船のことは、前回の記事で簡単に紹介しました。では、考古学的にはどうでしょう。


残念ながらまだ船体は確認されていません。
能島城跡の周辺の海底から揚がる村上海賊時代の鍋や皿などがあります。
これらは船の上で使っていた用具の可能性があるでしょう。



図録『瀬戸内海・中世沈没船の謎』(今治市村上水軍博物館、2013年)より

そして近年、「碇石」と思われる棒状の石が、宮ノ窪瀬戸周辺の海域で次々と引き揚げられました。
長さは55~90㎝くらい。



当時の碇(イカリ)は木製で、それに棒状の石を取り付けておもりにしていました。
この石と思われるものが発見されたのです。以前、水中考古学の専門家と議論したところ、これは小型船の碇石ではないか、という見解になりました。


しかし、これだけ単体で引き揚げられたので、まったく年代はわかりませんし、わりと新しい時代までこのような碇が使われていたという話もあります。

ただ「このようなタイプの碇石」は、中世の時代にも存在していたようです。それを示すのが、小豆島の近くで発見された「水の子岩海底遺跡」です。

船体は見つかっていませんが、海底には室町時代頃の備前焼が大量に沈んでいました。そしてその中には、宮ノ窪瀬戸で引き揚げられたものと類似した形、大きさの棒状の石が12本、一緒に沈んでいたのです。そしてこれらは碇石ではないかと考えられています。


詳しくは、以前開催した特別展の図録『瀬戸内海・中世沈没船の謎』をぜひご覧ください!

 


この図録。Kの力作ですが、あまり売れていません(泣)
在庫はまだありますし、郵送でも購入できますのでホームページをご覧ください^^

ちなみに、岡山県立博物館による水の子岩海底遺跡研究から推定された当時の碇の姿を、地元の漁師で当ミュージアムのパートナー(ボランティア)の方が再現してくれました。
しかし、漁師は納得がいかないようで、「ワシならこう作る」と。


もう一つ、船に関する出土品を紹介します。それは「釘」(くぎ)です。

能島城跡の発掘調査で出土した鉄製品のなかで圧倒的に多いのは「釘」。


ひと口に「釘」と言っても大きく2種類あると考えられていて、一つは建築用、もう一つは船釘です。

建築用釘と船釘をどう見分けるのでしょう。
例えば山口県の上関城跡の研究などで示されていますが、ざっくり言えば、断面が正方形に近いものが建築、平べったいものが船釘、なんだそうです。

うーん、でも。
私Kは、この見分け方が正しいのかどうか、きちんと根拠をもって示すことができるのかと言われると自信がないため、まだ能島城跡の見解を示せずにいます。まずは出土品の事例の収集から始めないといけないですね。

仮に平べったいものを船釘とすると、このタイプはたくさん出土しています。

一番、残存状況の良いものがこちら↓



仮に伸ばすと、手のひらサイズより少し大きいくらい。
扁平な鉄の棒の、頭の部分は少しL字状に屈曲していて、先が大きくU字に折れ曲がっています。

民俗研究によると、和船に使う釘は打ち込むのではなく、あらかじめ鑿で穿たれた釘道と呼ばれる穴をあけ、それに差し込むというもの。縫釘(ぬいくぎ)、通釘(とおりくぎ)、皆折釘(かいおれくぎ)があるそうです。

詳しくは、四国地域史研究連絡協議会編『「船」からみた四国』(岩田書院ブックレット、2015年)

この釘がどの種類にあたるのかは、まだわかりません。このU字の折れ曲がりも使用時のものなのか、後世のものなのか。


村上海賊の造船所などが発見されると面白いのになあー(能島の隣の鵜島には、造船所があったという話がありますが)。と思う今日この頃です。


戦国時代の船の研究。
実態の解明は、これからですね^^


K







2020年5月7日木曜日

戦国時代の船 おうちで村上海賊‟Ⅿurkami KAIZOKU" №9

前回、難波船軍図を取り上げましたので、今日はそれに関連して戦国時代の「船」の展示を紹介します。

いわゆる「和船」の研究は、石井謙治さんなどの造船史研究者によってリードされてきました。1983年に発行された『図説和船史話』(至誠堂)は我々にとっては必携本。現存する模型や絵図、そして江戸時代の兵法書などから当時の姿ができる限り復元されています。

これまでの研究にしたがって、和船の構造を説明しましょう。
まずは、この図をご覧ください。



中世でも古いタイプの和船は、西洋の竜骨(キール/船底の背骨のような材)を持つ構造とは異なるもので、一本の木を刳り抜いた船底材に棚板を取り付けた「準構造船」と呼ばれるものでした。

そして遅くとも16世紀の初め頃には、この船底の刳船材を「航」(かわら)と呼ばれる板材に置き換えた船が出現すると言われています。これがいわゆる「構造船」です。


じつは、私Kがずーっと気になっていることがあります。
大友氏VS毛利氏(村上氏)の船戦の様子を描いた「豊前今井元長船戦図」という絵図が存在しているのですが、それには村上海賊側の武将の名前とともに、次のように船の数が記されています。



兵舩八百艘

丸木舩四百艘



丸木舩??と聞くと、縄文時代以来のそれを思い浮かべてしまうのですが・・・ひょっとして、準構造船のこと???などと妄想しています。
まったくの思いつきなのでまだ仮説とも言えないのですが、なぜわざわざ丸木舟と記されているのか、気になって仕方ありません。


すいません。余談でした。
「豊前今井元長船戦図」(大分市歴史資料館蔵)は、村上海賊ミュージアムで写真パネル展示しています。またの機会にご覧くださいね。



さて、本題の戦国時代の船の話。

こちらが展示風景。




長年にわたる造船史研究によると、戦国時代の船は大・中・小の3種類に分けられます。村上海賊がお好きな方は、ご存じですよね。

写真手前から安宅船(あたけぶね)、関船(せきぶね)、小早船(こばや/こはやぶね)です。

一つずつ紹介しましょう。まずは安宅船。



安宅船は、垣立(かきたつ)と呼ばれる防御板で囲まれた箱型の構造になっており、水夫(かこ/漕ぎ手のこと)は、この垣立の中に隠れます。総矢倉造りなどと呼ばれています。

上の部分に建物があるのが特徴で、前回紹介した木津川口の合戦では、古文書に「勢楼」とありましたね。「勢楼」は、「井楼」とも書き、城などに建てられた高層の櫓(やぐら)のことを言うそうです。有名なのは『肥前名護屋城図屏風』に描かれた大安宅船の絵です。画像を掲載できないので簡単に紹介すると、船の上に「城」が乗っている、という表現になっています。

船体上の建物に突き刺さっている長い棒は「帆柱」です。
風や潮の流れを巧みに利用していたことは想像に難くありませんが、人力による推進も必要不可欠でした。使用したのは櫂(かい)ではなく、櫓(ろ)という長い棒。※あとで動画があります。

この垣立の下にずらーっと櫓が並びますが、その数は50~160丁(櫓の単位は「丁」(ちょう)と言うそうです)ととも言われています。船体の長さは20~30mとも言われていますが、確かではないようです。

水夫は船内にいますし、これだけの数の櫓をさばくとなると、日ごろの鍛錬が必要になります。
銅鑼や太鼓、あるいは統率する人の声によって、漕ぎ分けていたのでしょう。


ちなみに東京都八王子市に現存している安宅船模型(東京都指定文化財)は、櫓が50丁に満たない小型タイプのようですね。

文献研究※によると、元亀4(1573)年に織田信長が琵琶湖岸の佐和山の麓で「おびただしき大船」を造らせたとあり、その翌年には、九鬼嘉隆に「あたけ舟」(『信長公記』)を作るよう命じたとされています。

天正4(1576)年、荒木村重に宛てた織田信長黒印状に「安宅船」(「妙覚寺文書」)とありますし、先のブログで紹介された木津川口合戦における「太船をば勢楼まで組立て」(「毛利家文書」)も同じ年です。

そして毛利氏や小早川氏はやや遅れて建造を開始したようです。信長方の安宅船を見て建造を決断したのでしょうか。

※詳しくは山内譲先生のご著書『中世の港と海賊』(法政大学出版局、2011年)をご一読ください。


一方、安宅船が信長周辺で登場したという説に対し、いやいや、それ以前の永禄年間にはすでに東日本で安宅船が定型化しており、それを信長が瀬戸内海世界へ取り込んでいったのだ、という魅力的な説※も近年発表されています。

※家永遵嗣「後北条領国における長浜城と安宅船」国史跡長浜城跡整備事業報告書』(沼津市教育委員会、2016年)


面白い!


ただ、戦国時代最強の軍船!などと言われていますが、じつは弱点が・・・
船首まで幅広の箱型構造なので、速力や機敏性に欠けるという・・・
そして、波や風に弱いという・・・

当時の伊予国守護、河野通直も鹿島城(松山市)への攻撃の際、このことを嘆いています。

「夜前の風波安宅心元なく候」(『安芸白井文書』)



鹿島城跡↓




 
次は関船。
安宅船に対し、関船や後に紹介する小早船は、当時の文献や絵図ではほとんど登場しないので実態がよくわからない部分が多いのも事実です。

それを前提に、造船史研究による見解を紹介しましょう。

関船は海上の関を破る船を追撃することから名付けられたという説があり、スピードを上げるために船体が細長くなっているとも言われています。
それから積荷を運ぶ船という説から「積船」と称することもあるとか。




これも総矢倉造りで、前回のブログ木津川口合戦では「かこい舟」として登場しましたね。
櫓は30~40丁と言われています。長さは・・・よくわかりませんが15mほどと言う方も。
安宅船と違って高層の櫓(やぐら)は建っていません。

ちなみに、東京都八王子市には関船の模型もあります。


最後に小早船です。



近世初期の「武家万代記」に「小隼」という表現が見られるものの中世の史料には出てこないようです。一般的には、小回りとスピードを重視しており、連絡や偵察などに使われたと考えられています。

村上海賊ミュージアムの屋外には復元船が展示されています。


これは平成2年(1990)に、小佐田哲男先生(東京大学名誉教授)の監修の下、宮窪町が復元を行った第1号船で、全長8.4m・幅2mで、長さ6.6mの5丁櫓を搭載しています。ただこれは小型のタイプのようで、小早船の櫓の数は20~40丁櫓とも言われています。

ちなみに、村上海賊ミュージアム前の海で、毎年7月に「水軍レース大会」が開催されています。
復元された小早船による競漕ですが、和船文化の継承し、村上海賊の歴史に親しむことを主な目的としています。

残念ながら今年の大会の中止が発表されました。やむを得ません。
その代わりに、この映像をご覧ください。櫓(ろ)の操り方もイメージできると思います^^
村上海賊ミュージアムのボランティアクループ「せんどうさん」の雄姿です。


 

12名で1チーム。興味のある方は来年ぜひ参加してみてくださいね^^燃えますよ。


戦国時代の船の研究は、模型、絵図、後世の史料をもとに進展してきました。
しかし、当時の文献にはその構造や役割などは詳しく記されておらず、実際はわからないことだらけ。まだまだ研究の余地がありそうですね。

そして考古学的にはどうか・・・

長くなってきたので、本日はこのくらいで。
明日はもっと詳しく紹介します。


おっと、問題問題。


Q この3つの船の中で、別名で「海賊船」と呼ばれたと言われているのはどれでしょう。


①安宅船

②関船

③小早船

こたえは明日!

K