2020年4月30日木曜日

「加冠状」 おうちで村上海賊”Murakami KAIZOKU” №.6

ゴールデンウィークに入りました。

例年この時期はしまなみ海道がとっても賑わっていますが、同じ時期だとは思えない車通りの少なさ。
みなさんの外出自粛の賜物ですね😊


臨時休館中の村上海賊ミュージアムでは、普段は人の往来があって使えない広いスペースを活用し、未整理の書籍や写真などの資料整理を行っています。


作業中に資料を並べてるところは結構壮観です。
(虫干しも兼ねています)


さて、今回ご紹介する古文書はこちら!


文字数が少ない!!そして文字が読める!!



一応翻刻を載せておくと、


うん、まんまですね。「殿」が崩れているくらいですね。



いつものように整理すると、

❷日付:慶長18年(1613)5月21日 に
❸差出:毛利輝元 から
❹宛名:「村上源八殿」 へ送られた手紙

ということが分かります。



さて、❶本文は…

「加冠」「元」

以上!



み、短い……!!内容がないよう!!!


…と思われるかもしれません。



しかし、文章は短いですが、とっても大切なお手紙なんです。



最初に書かれている加冠(かかん)とは、男の子の成人式=元服です。


今は成人式といえば二十歳ですが、昔はもっと早い。

ここで出てくる「村上源八」は、慶長13年(1608)生まれ。

つまり、この時点でまだ6歳!

この手紙が書かれる3年前の慶長15年(1610)2月9日、源八郎の父・景親が53歳で亡くなり、兄・八助が跡を継ぎます。しかし、その八助も慶長18年(1613)3月21日に11歳の若さで早世……😢
次男の源八郎が幼くして家督を継ぐこととなったのです。
(「能島家系図」参照)


元服は、大人として社会デビューするための大切な儀式。

元服前は何もかぶらず頭頂部をさらしていましたが、元服で初めて「冠」(※武家では烏帽子)をかぶります。だから「加冠」。
大人になったら常に烏帽子をかぶっているのがマナー(頭頂部を晒していることは恥ずかしいこと)だったのが、この頃には廃れ、公式な場にかぶる程度になっています。

そして、「幼名」ではなく実名(じつみょう)がつけられます。

「実名」というのは、今でいうと「苗字」+「名前」の「名前」部分のこと。(ex「景親」)
昔は大人になって初めて名前がついたんですね。
ちなみに、「源八郎」というのは「通称」。今の大河で明智光秀が「十兵衛」と呼ばれているのも「通称」です。

ここで今回の書状の本文を思い出してください。

「加冠」「

差出人は毛利輝でしたね。

「元」がついていますね!


この古文書は、元服をして実名を名乗るようになる「村上源八」に、主君である「毛利輝元」が自分の実名の一字「元」を与えるお手紙だったのです。

これ以降、「村上源八」は村上と名乗るようになります。



村上元信肖像画(個人・当館蔵)


このように、元服の際、自分の実名の一字を与え、その証拠としてその一字のみを書いて与えた文書のことを

 一字書出(いちじかきだし)加冠状(かかんじょう)

などといいます。

今回の古文書は書き始めが「加冠」とあるので「毛利輝元加冠状」と呼んでいます。

主君が家臣に対して自分の実名の一字を与えるということは、主従関係を結ぶ儀礼として、中近世を通じてよく行われていました。


これまで紹介した古文書に出てきた人でいえば、

毛利輝元の「輝」は、室町幕府第13代将軍・足利義輝の「輝」

毛利秀就の「秀」は、豊臣秀吉の「秀」



では、今回のクイズ。


Q.村上景親は、誰から字をもらっているでしょう🤔?

① 小早川隆「」 ……毛利元就の三男
② 村上「」広  ……村上武吉(景親父)のいとこ
③ 長曾我部元「」……土佐国(高知県)の武将
④ 三村元「」  ……鶴姫の兄

村上海賊ミュージアムマスコットキャラクター
かげちかくん

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