2021年5月20日木曜日

「#おうちでバリミュ」復元小早船で能島城へ!

市内のミュージアムや収蔵品の魅力を紹介する # おうちでバリミュ 

本日からは、各館が公式ブログや日本遺産「村上海賊」公式Twitterで、不規則・不定期で情報を発信していきます!


今日は少し短い文章ですが、とても貴重な動画をお届けします。


この動画じつは1月に放送された超有名番組のリハーサルの映像です。

リハなので某有名タレントさんは映っておりません。


復元された「小早船」※を能島城跡の船だまりに着岸させるという、超貴重映像。

※水軍レース実行委員会が保管しているもので、村上海賊時代の小型の和船を復元し、毎年レース大会を行っています。

小早船

私が知る限り、このような試みは行ったことがなく、学術的にも意義のあるものになりました。

この時間帯、周囲は潮の流れが速く、沖へ出ると流されてしまいますが、この船だまりに入ると穏やかで一直線で砂浜に向かってきます。


能島城跡の船だまり


海賊たちの日常の風景だったのでしょう。その再現ができ、感激しました。


(ちなみに「チョーサー」という掛け声は、この地域の「秋祭り」の掛け声なので、村上海賊時代から伝わるものではありません。漕ぎ手を盛り上げるために私の上司がアドリブで^^この後、ほうろく玉で攻撃してすいません。)


この光景を見ていて、東国(関東)の海賊たちの戦い方を思い出しました。


「敵船と出会い、勝利を得、風(富)津浦へ追い上げる

「佐貫前で房州海賊と掛け合い、佐貫浜陸地へ押し上げ

(『越前史料所収山本文書』)


どうやら戦国時代の海賊の戦法は、西と東で違いがあるようです。

村上海賊は「ほうろく火矢」などを用いた海上での戦法を得意としました。


ほうろく玉を用いた海戦
香川元太郎画

※動画や画像は転載しないでくださいね


 一方、東国(関東)の海賊は、砂浜へ敵を追い上げて(押し上げて)、最終的には陸地で決着をつけていたということがわかります。状況は違うかもしれませんが、砂浜へ和船が着岸する姿は、まさにこの動画のようなものだったのでしょう。


ちなみに、この「砂浜への着岸」のことを「ビーチング」と呼ぶということを、この超有名番組で共演させていただいた先生から教えていただきました。ただ、この「ビーチング」に相当する日本語の単語がなかなか無いそうです。


さすがに戦国時代の人たちは「ビーチング」とは言わないでしょうから(笑)実際は、どのように表現していたのでしょう。押し上げ?乗り上げ?のような感じでしょうか(想像)。古文書でわかると面白いですね。探してみよう。


ちなみにこの映像は私が撮影したものです。

この1本の映像からどんどん話題が広がりますね。

「ブラタモリ」と地元漁協のみなさんに感謝です。


2021年5月15日土曜日

「#おうちでバリミュ⑳」 「古文書」を楽しもう!(4)本文を読んでみよう!

今回は、ついに本文を見ていきます!





前回いつ」「誰が」「誰にという部分を見ました。


八月十三日」に「毛利輝元」から「村上勝太郎(元武)」と「村上三郎兵衛(景親)」に出されたお手紙であることが分かりましたね。


今回は、何を伝えようとしていたのかを見ていきます。


くずし字を活字化(翻刻)してみると、




原文には句読点がつけられていないので、漢字の羅列になっています😱

そのため、まずは文章の区切れを考えてみましょう。



①読点をうってみる!

ここでポイントになるのが

今でいうです・ますにあたる「候」が語尾につくことが多いので、このような手紙に使われる文章のことを「候文」とも言います。

「候」を頼りに区切ってみると…




このような感じになります。

〇をつけたは、いろいろな使い方がありますが、ここでは
「~のじょう」と読んで「~なので」の意味。

「候条(そうろうのじょう)」=「~ですので」


これで文章の区切りが分かりました。

しかし、このままの順番では読めません。

日本語ではありますが、漢文のように返って読みます。




②返り点をつけてみる!

古文の授業で習ったレ点・一二点をつけてみましょう。





為(~のため・~として)」「以(~をもって)」「従(~より)のような、下の言葉を受ける文字や

※他にも、「於(~において)」「就(~につき)」「任(~にまかせ)」「至(~にいたり)」などなど

(べし)」「(ず)」「(る・らる)」「(しむ)のような助動詞

が来たら、返りそうだな~と目星をつけます。
(慣れると②の作業なしに③の作業ができるようになります😅)




③書き下し(読み下し)てみる!

漢字だらけの文章も、読んでみると日本語だということが分かります。




この読み方も慣れが必要😢

読めなくても全然大丈夫です!

あの漢文はこんな感じで読むんだなぁ~程度に思ってください。


そして、聞きなれない単語がたくさん😱

分からない単語は辞書で調べてみましょう📖!

(例えば『日本国語大辞典』)




そうした作業を経て、


③現代語訳を考えてみる!

原文のニュアンスをなるべく崩さないように現代語訳していくのはとても難しいのですが、大体以下のような意味になります。




山口県周防大島の「安下崎」というところで悪さをしている「賊船」の調査に関する内容のお手紙だったことが分かりましたね。

この件に関して、差出人の毛利輝元は「一大事」だと考えているようです。


これはいつ頃書かれたものなのでしょう🤔?


前回「いつ」書かれたものなのか確認しましたが、「八月十三日」としか書かれていませんでしたね😅


古文書は、後に証拠書類となるような大切な内容のものには年号が書かれますが、その時限りの内容のものには年号は書かれません。


今回の内容も、連絡をしているだけの内容のため、年号が書かれていないのです。


では、どうやって判断するのか……?


それはまた次回。

もっと詳しく内容を見ていこうと思います😊



※「#おうちでバリミュ」⑦で、M担当回は全4回と言いましたが、臨時休館が5月31日まで延長してしまったので、まだまだ続けます😅



今回のブログの内容もまとめています。

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M


2021年5月14日金曜日

「#おうちでバリミュ⑳」 「古文書」を楽しもう!(3)「いつ」「誰が」「誰に」に注目して見てみよう!

 「#おうちでバリミュ」第20回目👏

再び村上海賊ミュージアムのMの担当になりました😊

※これまでの「#おうちでバリミュ」はこちら


まずは、前回のオマケの答え合わせをしましょう。

まだやってないよ!という方は答えを見る前にこちら

 




どれくらい読めましたか?

難しいですが、よ~~く見てみると意外と読める字があったりします。

古文書を見かけたら、1文字でもいいので、読める字探しにチャレンジしてみてくださいね🔍



さて、オマケは一部分だけだったので、全部の文字をみてみましょう。




くずし字を活字に直しても漢字だらけ……😅

それだけでも古文書にニガテ意識を持ってしまうかもしれません😢


今回は、漢字だらけの文章が読めなくても分かる部分を見ていきます!




「古文書(こもんじょ)というのは、

誰か」から「誰か」に宛てて書かれた昔のお手紙のことです。

そのため、古文書には

手紙を出した人(差出)」と「手紙を受け取る相手(宛名)」が出てきます。


そのことを踏まえて、古文書の構成を見てみましょう。

画像のように、4つのパーツに分けられます。






詳しい内容(本文)を見ていく前に、まずは
いつ
誰が」「誰に送ったお手紙なのかを見ていきましょう。



 ②日付  八月十三日


 ③差出  (花押) ※花押=サインのこと

これは毛利輝元の花押(サイン)


 ➃宛名  村上勝太郎とのへ/村上三郎兵衛とのへ

村上勝太郎は元武(景親の甥)
村上三郎兵衛は景親


②「8月13日」

③「毛利輝元」

➃「村上元武」と「村上景親」 に

送ったお手紙であることが分かりましたね😊



毛利輝元は、村上元武・景親に「何を」伝えようとしたのか?

次回はいよいよ  ①本文  を見ていきます!

(次回はちょっと内容が難しいかもしれません😅)




今回のブログの内容もまとめています。

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M


2021年5月6日木曜日

「#おうちでバリミュ⑫」 わぁ、くっついた!(2)海岸でひろったカケラなのに、摩耗(まもう)していないわけ

 昨日は、能島城跡で高低差15メートル以上の離れた場所でひろった、あるいは出土した陶磁器のカケラがくっついた、「奇跡の接合」のお話をしました。


くっついた中国産青磁のお皿がこちら。14世紀代のものと推測されます。



3つのカケラが接合されていますが、そのうち1つは海岸の砂浜でひろったもの。

でも海岸で拾ったものは、長い年月波打ち際を漂い、砂で研磨されて角が取れて丸くなってしまっています。しかしこの青磁は角が取れておらず、郭(くるわ)で出土したものとピタっと接合できました。


その理由は一つ。

長い年月そこにあったのではなく、ごく最近、砂浜に流れでたものだからです。


2018年7月の西日本豪雨。

能島城跡は、長時間続いた豪雨によって船だまりの斜面は大きく崩落しました。

その崩落は二之丸の縁辺にもおよび、中世の時代に海賊たちが造ったであろう、郭(くるわ)(城の平坦な面)の縁辺の一部も流出してしまいました。



海際斜面の崩落は能島城だけだろうかと思い、船で周辺の島々を観察すると、大島や伯方島の海際のあちこちで斜面崩落が発生していました。豪雨の凄まじさと被害の大きさがわかりました。


発掘調査は被害の状況を調べて、適切な復旧の方法を考えるために行いました。能島城跡は国指定史跡であり、瀬戸内海国立公園特別地域内にありますので、通常の工事とは異なり、景観にも配慮した方法が求められます。


カケラが摩耗していない。

そして、二之丸のカケラと海岸のカケラがくっついた。


これらのことは、もともとは二之丸にあったカケラが、土砂とともに海岸に流れ出てしまったという事実を示しています。


このように流れ出てしまった土器や陶磁器の数は、そのままにしておけば、砂で研磨され角が丸くなって、もともとの形が少しずつ失われてしまいます。



海岸に散乱した土器など。
どれかわかりますか??



たくさん落ちていますね。


そこで、海岸に流出した土器や陶磁器を「レスキュー」することにしました。


レスキューされた土器や陶磁器の破片数は3000点以上。

そのなかに、前回紹介した青磁の皿があったのです。


この災害の状況や考えられる原因。復旧工事に向けて実施した発掘調査成果と災害復旧工事の概要をまとめた「平成30年度災害復旧事業報告書」を昨年度末に刊行しました。



レスキューした土器や陶磁器についても、今後、展示や研究などで活用できるようにできる限り掲載しました。



「出土状況」(いつ、どこで、どのように使われたか、などを知るための情報)という大事な情報を失ってしまいましたが、とても珍しくて貴重なものや残りの良いもの(破片が大きく、割れが少ない)もたくさんあり、今後の展示で活用できそうです。


この報告書は非売品です。新型コロナウィルスの影響によって少し先になるかもしれませんが、県内の図書館や村上海賊ミュージアムでも閲覧できるようにしたいと思います。


今日は少し暗くなってしまうような話でしたねm(__)m

でもみなさんに知ってもらいたいこと、後世に語り継がなければいけないことなので、記事にさせてもらいました。最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


k


2021年5月5日水曜日

「#おうちでバリミュ⑫」 わぁ、くっついた!(1)能島城跡でひろった陶磁器のカケラ

こどもの日ですね!


例年ですと、たくさんの子どもたちで大にぎわいのミュージアム。

残念ながら臨時休館中ですが、子どもたちに大人気の「土器パズル」にちなんで!?今日は能島城跡(のしまじょうあと)でひろった土器のカケラの話をしましょう。


能島城跡は、村上海賊の代表的な城で、国の史跡に指定されています。村上海賊ミュージアム(旧村上水軍博物館)が調査研究はもちろんのこと、管理や整備を担当しています。


能島(周囲約850m)と鯛崎島(周囲約250m)の二つの島全体をお城にした全国的にも珍しいタイプの城。私たちはよく「海城」と呼んでいます。

そう!1月に放送されたNHk「ブラタモリ」でタモリさんが上陸した島!!

かっこいいでしょ^^



北側上空から撮影 2018年冬


この能島城。14世紀(西暦1300年代)から活発に利用され始め、16世紀の終わり頃(秀吉の時代)に廃城になります。発掘調査を行ったところ、海賊たちが生活に使ったであろう、この時代の土器や陶磁器(とうじき)がたくさん発見されました。ただし、割れていない完全な形のまま出土するのは珍しく、ほとんどが小さく割れた状態で発見されます。


この写真は、能島城の北側の船だまりと呼ばれる海岸で「拾った」もの。


船だまりといえば、タモリさん、アナウンサーの浅野さん、私K、そして海賊たちがたわむれた海岸です!

土器や建物などの壁に使った土のかたまりが多いなか、中央のツヤツヤした緑色の陶磁器がひときわ目立ちました。ほとんどが村上海賊の時代のものです。(この陶磁器、すでに産地や時代のわかってしまった専門家や焼き物好きの方もいらっしゃると思いますが、それはのちほど^^)


さて、これらの大量の土器や陶磁器を船だまりでひろったのは、2018年8月~翌年3月頃のことでした。

ちょうどその頃、この船だまりの上にある二之丸(郭(くるわ)Ⅱ)の発掘調査が行われました。発掘調査で出土した土器などを村上海賊ミュージアムに持ち帰り、作業員さんに洗浄をお願いし、かごに並べて乾かしてもらいました。


(あいかわらず、たくさん出土品の多い城だな…。珍しいものはないかな??)


そう思いつつ調べていると、緑色でツヤツヤし、表面がボコボコと波打った形の陶磁器のカケラを発見。



どこかで見たな…
時々、妙に勘が働くときがあります。時々です。




あれだ!



ならべてみるか




ほらね、そっくり…



!!!






わぁ、くっついた!


出土品のカケラ同士がくっつくことはよくありますし、遺跡から出土する土器などは、だいたいバラバラになっているので、「接合」という作業を経て、形が復元されていきます。

博物館などで見る出土品の多くは、カケラが接合され、パーツの足りない部分を石膏で補修されたうえで、展示されています。


ただ、今回びっくりしたのは、それぞれのカケラが発見された「位置」です。写真で見るとわかりづらいかもしれませんが、高低差は15メートル以上あります。

こんなに離れた場所で偶然発見された小さなカケラ同士がくっつくなんて、奇跡⁈



(じつは、数十メートル、数百メートル離れた場所の土器がくっついた!なんて話を聞くこともありますので、「奇跡」は大げさかもしれませんが^^;)


さらに、私の勘は働き^^
二之丸の同じ調査地点で出土したもう一つのカケラがくっつきました。

さらに大きくなったものがこちら。



小さなカケラだと器の種類や産地、時代などを判別するのも難しくなりますが、大きくなればなるほど、さまざまな情報を読み取ることができます。

これだけカケラが大きくなると、もともとの形の推定も可能になってきます。
縁の部分や高台と呼ばれるそこの部分が残っていると、直径など、大きさを復元することもできるんですよ。

「あ、この部分のカケラなんだ」というのがわかってきます。こんな感じ↓




口の部分の直径が20㎝ほど。部分的ですが上から下まで残っているので、高さが4.5㎝の大きめの皿だということがわかりました。

この皿は、中国の龍泉窯(りゅうせんよう)というところで作られた「青磁」(せいじ)で、表面には蓮(はす)の花弁のような模様があります。しかも花弁は少し浮き出るように立体的で丁寧なつくりに仕上げられています。

この蓮の花弁のような模様のことを私たちは「蓮弁文(れんべんもん)」と言いますが、時代が新しくなるにつれて、蓮弁が立体的なものから、細い線だけで描かれるものに変化していくという特徴があります。

16世紀頃の青磁の碗
蓮弁は細い線で描かれるだけ


器の形、蓮弁の特徴、釉薬の色、高台の厚さ…

長くなるので細かいことは述べませんが、これらの特徴を捉えたうえで、現在の研究に照らし合わせると、この青磁の皿は14世紀代のものではないか、と推測することができます。

14世紀といえば村上海賊が活躍し始めたころ。そして能島が利用され活発に始めたころです。そのころに中国龍泉窯で作られた青磁の皿であり、その後、輸入され、能島城にもたらされたものということがわかるのです。


とても貴重なものなので、今年度中にはみなさんに見ていただけるように展示したいと思います。お楽しみに。


ところで、能島城跡の海岸では、いまでも土器や陶磁器のカケラが落ちていることがありますが、ほとんどが長い年月、波打ち際を漂い、砂で磨かれて角が取れて丸くなってしまっています。

能島城跡の海岸で採集された青磁(常設展示室)

貝類が付着しているものも。

角が取れて丸くなったうえに貝類が付着

でも、先ほどの青磁の皿の一片は船だまりで採集されたにもかかわらず、角も取れていませんし、貝もついていません。

それは、いったいなぜでしょうか。
離れた場所のカケラがくっついたというのもヒント。
そして、海岸でたくさんの遺物を拾ったのは、平成30年8月から3月。

もうおかわりかもしれません。その背景には悲しい事情があったのです。

続きは明日。

k

★お願い★