2012年11月29日木曜日

久留島家ゆかりの地を訪ねて①-豊後森藩主・来島康親-

旧豊後森藩領(大分県玖珠町ほか)に残る、久留島家ゆかりの文化財やその逸話について、数回にわけてご紹介いたします。今日は、今年没後400年を迎えた、初代森藩主来島康親のお話です。

来島康親は、父の村上通総の戦死を受けて、来島村上家の跡を継ぐことになります。康親は、「村上」を名乗らず、姓は「来島」(史料上は「来嶋」)を使い、右衛門一郎などと呼ばれました。

来島康親の肖像画は、特別展で公開中です

奥に見える山が国史跡角牟礼城跡、その麓に森藩陣屋跡
城下の安楽寺に久留島家の墓地(手前)がある
伊予(愛媛県)から豊後(大分県)へと国替えされたのは関ヶ原合戦から1年後の1601年のこと。大坂での一年間の流浪生活を支えた浅川氏、田坂氏らの家臣とともに、豊後国玖珠・日田・速見郡内に1万4千石が与えられ、豊後森藩が誕生しました。

豊後森藩の陣屋や城下町が建設されたのは現在の玖珠町森で、別府市の海岸から30㎞以上、内陸に入った山間の地にあります。瀬戸内海に面した鶴見村(現別府市)と辻間村内の頭成(現日出町)も与えられたので、海とのつながりはかろうじて保たれることとなりました。



来島康親のお墓

康親は、新天地である豊後森藩に入り、城下町の建設や藩体制の整備に奔走しましたが、1612年、31歳の若さで亡くなりました。10代で来島村上家を継ぎ、父が命を落とした戦場へと送られ、天下分け目の関ヶ原の合戦での敗北、一年の流浪を経て、豊後森へ国替え・・・。私たちの想像を絶する激動の生涯だったのでしょう。

康親ほか森藩主代々のお墓の多くは、大通山安楽寺の境内にあります。

大通山安楽寺・・・

旧北条市の方は、ピン☝ときたのではないでしょうか。
愛媛県松山市(旧北条市)に、来島村上家の菩提寺といわれる良く似た名前の有名なお寺があります。そう、そのお寺の名は“安楽山大通寺”。

豊後森へ移るにあたって、元の山号と寺号を入れ替えて改称したと言われています。
伊予と豊後森の深いつながりを感じることのできるエピソードですね。

玖珠町森へは、久留米駅と大分駅を結ぶJR久大本線の豊後森駅が最寄駅です。私は一度、豊後森駅から安楽寺まで、少し距離はありましたが、散策がてら歩いてみました。・・・真夏だったので、ちょっとだけ後悔しました。お車では、大分自動車道の玖珠ICの近くです。ぜひお訪ねください!

つづく (K)

※参考文献 『玖珠町史』上巻自然~近世 など

2012年11月27日火曜日

水軍バリィさん七変化2(サンタさん)


2012年ゆるキャラグランプリで、ついに全国1位となった

今治市のゆるきゃらバリィさん


→ゆるキャラグランプリ2012結果

グランプリ受賞おめでとう!!

・・に合わせたわけではないけれど

水軍博物館でも衣替え



今回は、サンタクロース?になりきって、

受付でメリークリスマス!


この衣装も、博物館受付スタッフの手作りなんですよ。



そういえば、バリィさん

先日も取材で博物館を訪れていました♪

今年はこれで2回目のご来館です!

運が良ければ本物と遭遇することができるかも・・(S)



※・・・衣装替えは不定期です。



2012年11月25日日曜日

来館者数40万人達成!

2012年11月25日(日)午後2時30分頃、村上水軍博物館の来館者数40万人を達成しました!


照れくさそうに認定証を受け取る大輝君

40万人目のお客様は、香川県から団体でお越しの小学生4年生、薦田大輝(こもだひろき)君。

「あなたが40万人目です!」
矢野館長に突然呼び止められ、びっくり。照れくさそうにしていましたが、

「この子だけ懸賞が当たったりして、最近、運が良いんです。」とお母さん。
大輝君は幸運の持ち主だったようです。おめでとうございます!

認定証と記念品を手に、ご家族で

一方、大輝君の前後に来館されたお客さま。

「もう少しゆっくり入れば良かった!」
笑いながらおっしゃってました。

一緒に来られた約50人のお客さまに囲まれて、セレモニー会場のホールは笑いと拍手と紙ふぶきに包まれました。みなさまご来館いただき、ありがとうございました。

当館は、平成16(2004)年10月22日に開館。先月8周年を迎えたところです。
開館当初の想定(年間2万人)を大きく上回り、毎年約5万人のお客様にご来館いただいております。

今後もさらに村上水軍の歴史文化や、それを育んできた島の魅力を発信し、多くのみなさまにご来館いただけるよう努力したいと思います。

この場をお借りしてご来館いただいた皆様に感謝を申し上げます。(K)

2012年11月23日金曜日

色づく能島②

遠景写真だと能島の紅葉がわかりにくかったので、対岸の「水場」という場所から撮影してみました。




綺麗に色づいていますが、とても城跡には見えませんよね。

「能島の桜は有名だけど、城跡とは知らなかった。」

こんなお客さんの声を時々耳にします。植生の管理も必要ですが、能島城の価値や魅力を知ってもらうために、もっと情報発信に努めなければいけません。

色づく能島の目の前で、決意を新たにしました。(K)

2012年11月22日木曜日

色づく能島

海風が冷たくなってくるとともに、能島がカラフルになってきました。

遠景写真ではわかりにくいですが、ソメイヨシノはえんじ色、クヌギは山吹色、ハゼノキは赤く鮮やかに色づきます。


中央右が能島、左が鯛崎島(南東の方角から撮影)

そして、紅葉が終わり、葉が落ちると、城の平坦面(郭)がはっきりと見えるようになり、能島が城であったことがなんとなくわかるようになります。


古写真を見ると、かつての能島には現在繁茂しているような大木はありませんでした。
その後のソメイヨシノの植樹によってしだいに土壌が肥え、クヌギなど大木が育つ基盤ができていったと考えられています。

斜面に生えている大木は、強風を受けると脆い岩盤を抱いたまま倒れてしまう恐れがあります。また、大木の根は岩盤の亀裂や柱穴跡などの遺構に入り込み、さらに土器などの遺物を壊すことが近年の発掘調査でわかってきました。つまり、能島の樹木が、400年以上残ってきた遺跡を壊す原因の一つになっているということなのです。

冬でなくても、能島が城らしく見えるように植生整備を行うこと、例えば大木を低木に置き換えていくことで、能島城の保護にもつながると思います。博物館では、今後どのように能島の樹木を管理していくか、専門の先生方のご指導を仰ぎながら、考えているところです。(K)

2012年11月20日火曜日

出土品を手に取って

今日、滋賀県の大学4年生K君が、当館に保管している見近島や能島城の出土品を調査するために当館へやってきました。卒業論文制作のための資料調査だそうです。


一つ一つ手に取って
K君は、中世の時代の瀬戸内海をめぐる流通に興味があるそうで、備前焼、硯(すずり)、茶臼、中国産の陶磁器などを熱心に調査していました。

高く積み上げられたコンテナ、それにびっしりと詰まった土器の量に、最初は呆然としていましたが、一つ一つ実物を手にとって観察し、実物を前に学芸員などと議論することで、色々な発見があったようです。どんな論文を書き上げるのか、大変楽しみです。

毎年3,4人、卒業論文で村上水軍の古文書や海賊の遺跡を扱いたい、という学生さんが当館にやってきます。ただ、実際に史料や出土品を手に取って見ることなく、展示を見て、学芸員にわからないことを聞いて、調査を終える方も少なくありません。

今回のK君のように、実物を手に取って観察することでしか得られないことも多くあると思います。
もちろん、貴重な資料ですから、取り扱い方を学んでいるというのが前提ですが、できる限り、資料調査の要望にお応えしたいと思っています。学生のみなさん、お気軽にご相談ください。

卒業論文か・・・。私にもそんな時代があったことを思い出します。提出前には徹夜で作業したり、期限ギリギリでデータが消えた友達をみんなで助けたり・・・。卒論にはドラマがありました。(K)

2012年11月18日日曜日

土錘づくりに挑戦!




博物館の地元、宮窪小学校の6年生が、

土錘づくりにチャレンジ!


11月10日の午前中・・博物館で土錘をつくりました♪

土錘(どすい)は刺し網などの魚を捕る網に使われた

土製のおもりで、能島城跡の発掘調査でもたくさん出土

しています。

そして、その形は今もほとんど変わることなく、

地元宮窪の漁港でも見ることができます!


作り方は・・・
竹の枝を芯にして、粘土を巻き付け、芯を抜くと、あっとい

う間に出来上がり!

(当時の人はどうやって作ったのかなと想像しながら・・)


だけど、遺跡から出てくる土錘はきれいに整形されていて・・・

均等に作るには、なかなかテクニックがいるんですね。



みんな中世の人たちの手仕事に近づけたかな・・

 
この後、自然乾燥させて、

冬場に野焼きして完成の予定です!!

野焼きの様子は、

2月頃お知らせします♪ (S)

2012年11月16日金曜日

久留島家ゆかりの地、玖珠町からのお客さま

今日は、大分県玖珠町のお客さま14名が来館されました。


熱心に見学をする玖珠町のみなさん

玖珠町は、来島康親公が初代藩主となった豊後森藩がおかれた町です。

当館へお越しいただいたのは偶然だったそうですが、玖珠町でも普段は公開されていない来島村上氏の肖像画や、秀吉から拝領したとされる具足の下着を見ることができ、大変満足のご様子でした。

この特別展で出展させていただいた資料以外にも、玖珠町には久留島家ゆかりの文化財が多く残されています。

このブログでも少しずつ紹介したいと思います。(K)

2012年11月15日木曜日

来嶋・久留嶋・来島・久留島

どれも「くるしま」と読みますが、表記はさまざま。なぜ?


特別展のタイトルを見て、なんのこっちゃと思われた方も少なくはないでしょう。

『海の来嶋・山の久留嶋来島村上水軍から近世大名久留島家へ-』

特別展のタイトル



「ちょっと学芸員さん、漢字が間違ってるよ。」とお客さま。

混乱の原因は、見慣れない「嶋」の漢字が使われている点にあるようですが、じつは古文書の表記が、もともと「来嶋」なのです。久留島家文書の実物をご覧になって、お客さんも納得されたようすでした。

豊臣秀吉朱印状をみると、村上通総のことを「村上助兵衛尉」と書かれているものもある一方で、「来嶋助兵衛尉」、「来嶋兄弟」、「来嶋出雲守」と書いているものが目立っています。

そして、通総の息子で、豊後森藩初代藩主の康親は、「村上」ではなく、「来嶋」の姓を使うようになります。さらに、2代藩主の通春は、姓を「久留嶋」に改称します。じつはこの時の島も古文書では「嶋」なのです。

※「久留嶋」と書かれている古文書は、今回は展示しておりません。
『今治郷土史 資料編 古代・中世』に写真が掲載されています。


久留嶋に改姓した明確な理由はわかっていませんが、古くから言われる説を紹介すると、豊臣大名であった過去を断ち、新たに出発することを幕府に示した、あるいは豊後森の地にしくまるといった決意の表明であったと言われています。

現ご当主の姓である「久留島」が使われ始めたのは、厳密にはわかっていませんが、明治時代以降と思われます。また、最近では、「来村上水軍」という用語もしばしば使われるようになり、もともと古文書で使われていた「嶋」は、一般的には使われなくなりました。

こういった姓の変遷や、古文書の表記と一般的な使い方との違いを強調するために、あえて、4種類の表現をタイトルで使いました。ぜひ本物の古文書をご確認ください。(K)



2012年11月14日水曜日

雨中の遺跡探訪・・ 「来島城を散策する!」


ただいま開催中の特別展「海の来嶋・山の久留嶋」

シンポジウムに続く関連行事第2弾として、

遺跡探訪『来島城を散策する!』を11月11日に開催しました!



当日はあいにくの雨・・

それも、やや横から吹き込んでくるような荒天にもかかわらず、

一般募集の市民に関係者を加えた37人の参加がありました♪

(それ以外にも多くの申し込みがありましたが、船の定員の上限があり、お断りしないといけない状況に・・)



今回の探訪のポイントは、

①来島城の郭、石垣、岩礁ピット、海蝕テラスなど、
 中世からのこる城の遺構を観察すること


②城の各所から見える、来島海峡などの航路、
 対岸の水場集落や他の城跡との距離感、
 そして取り巻く潮流を体感することです。


これらを約2時間かけてゆっくりと巡りました。。

(詳しい内容はまた後日に・・)


来島城の最大の石垣(左奥)



岩礁ピットと海蝕テラスの見学


 
今回、参加されなかった方も、来島へは波止浜港から1日数便の

定期船が出ていて、

海城(島城)としては、非常にアクセスが良いので、

ぜひ、お散歩がてら探索してみてください♪


   リンク→波止浜港⇔来島の定期船時刻表 (渡船代 往復280円)


天気が良くて、草木の茂らない秋冬の、

さらに言えば、引き潮で岩礁が現れている時であれば

言うことなしです!! (S)


2012年11月12日月曜日

村上水軍シンポジウムを開催しました

数日前に、このブログでもお知らせさせていただいた、村上水軍シンポジウム『村上水軍研究の最前線-来島村上氏を中心に』を11月10日(土)に開催いたしました。

当日は、13時からの開演にも関わらず、10時頃から続々と参加者のお客様が来館されました。
理由を尋ねると、「シンポジウムの開館前に、特別展を見ておきたい。」とのことでした。参加者の意気込みが伝わり、報告者の一人でもあった私の緊張は高まる一方です。

13時開演。

客席は、約110人の参加者で、ほぼ満席となりました(写真)。村上水軍研究への注目度の高さをうかがうことが出来ました。

シンポジウム冒頭では、この度、『久留島家文書』をお貸しいただいた来島村上氏の末裔、久留島家18代ご当主(村上通康から数えて)にもご参加をいただき、開催にあたりご挨拶をいただきました。


参加者の年齢は、10代~80代までと様々で、市内外の歴史研究者・愛好家はもとより、地域住民の方の参加も多く見られました。今治市、松山市在住の方が多くを占めるなかで、東京都、香川県、広島県、山口県の参加者も見られました。

シンポジウムの内容につきましては、今日はご紹介いたしませんが、参加が叶わなかった方にも最新の情報が伝わるような方法を考えたいと思っています。


終了後のアンケート結果は右図のとおりです。
大変満足、ほぼ満足のお客様が92%という、大変高い評価をいただきました。
その一方で、「時間が短すぎる」「少し難しかった」などといったご意見も多く頂戴いたしました。
今後の運営に活かしていきたいと思います。貴重なご意見をいただき、ありがとうございました。参加者のみなさまには、この場をお借りして厚くお礼を申し上げます。

特別展『海の来嶋・山の久留嶋-来島村上水軍から近世大名久留島家へ-』は、12月16日まで当館にて開催中です。ぜひお越しください!
展示図録は300円で販売しております。郵送での購入もできますので、詳しくは、このホームページの刊行物のページをご覧ください。(K)

2012年11月10日土曜日

水軍バリィさん七変化(七五三)


今治市のゆるキャラとして人気のバリィさん

2011年ゆるきゃらグランプリでは全国第2位に、

そして、今年2012年は、現在首位を独走中!!(のはず…)


→ ゆるきゃらグランプリ2012 【バリィさん】


そんなバリィさんも水軍博物館に住んでいると、素敵な衣装を着させてもらえます♪

今は、七五三参りのいでたちで、

お客様をお出迎え♪


じつはこの写真以外にもまだ館内のどこかに・・

それはぜひ博物館に見つけに来てください(S)



※・・・衣装替えは不定期です。





2012年11月8日木曜日

村上水軍シンポジウム『村上水軍研究の最前線』

今週末の11月10日(土)、当館にて特別展開催記念シンポジウムが開催されます。

近年、海賊衆村上氏をはじめとする伊予戦国史の研究が活性化しており、従来の見解が大きく塗り替えられつつあります。このシンポジウムでは、開催中の特別展の内容にあわせ、来島村上氏を中心とする村上氏の動向について、地域の方々を対象に、新発見資料の紹介を含む最新の知見を分かりやすく解説し、村上水軍への関心を高め、地域文化の創造につなげる機会にしようとするものです。

プログラム(13:00~16:20予定)

記念講演 西尾和美先生(湯築城資料館名誉館長)
       「来島村上氏の動向について」
      ・・・来島村上氏に関する近年の研究動向と、今後の新たな展開の可能性についてご講
       演いただきます。

報告① 村井祐樹先生(東京大学史料編纂所)
     「史料編纂の立場からみた村上氏―新発見・来島村上氏関係史料の紹介を兼ねて―」
      ・・・当館特別展にて写真パネル展示中の新発見史料について詳しく報告いただきます。

報告② 土居聡朋先生(愛媛県歴史文化博物館)
     「久留島家文書を読む-展示品を中心に-」
      ・・・初一般公開中の久留島家文書の読み方についてわかりやすく解説いただくととも
        に、史料の年代などについて、新たな見解をご報告いただきます。

報告③ 田中謙(今治市村上水軍博物館)
     「村上氏の城を掘る-文献史料との接点をさぐる-」
      ・・・能島城、来島城の発掘調査成果と、これまでの文献研究の成果を照らし合わせて、    
        新たな研究課題をさぐります。

報告④ 大成経凡先生(地域史研究家)
     「豊後森藩久留嶋氏と、その後裔久留島武彦」
     ・・・関ヶ原合戦後の動向から、歴代の豊後森藩主の事績、そして日本のアンデルセンと
       称された久留島武彦と宮窪町との関係まで、わかりやすく報告いただきます。

パネルディスカッション コーディネーター 土居聡朋先生

会場は、村上水軍博物館1階の講座室です。
定員は120名(要申込み)ですが、まだ若干の空席がございます。
まだ間に合います!ぜひお申込みください。(申込み:村上水軍博物館0897-74-1065)



先ほど、当日お客様に配布するレジュメの編集が終わり、印刷・製本作業に入りました。
来島村上氏の最新研究成果が詰まった38頁におよぶ大作です!(K)

2012年11月5日月曜日

気分は海賊大将!陣羽織風ユニフォーム完成間近

「博物館に行くのに、着るもんによわるがね。」

「全国からお客さんが来るのに恥ずかしい格好はできんわい。」

「おそろいにしたらええのにねぇ。」

ミュージアム・パートナー(愛称:せんどうさん)さんのこんな悩みから、ユニフォーム作りは始まりました。

「なにがええかね。」
「せっかくやから、水軍にちなんだものがええわい。」

「よろいは?」「重かろうが。」「冗談やわい(笑)」
「赤い陣羽織はどうでぇ。」「還暦みたいじゃが(笑)」「目立ってよかろう。」
「ほんなら、そうせんか。」

赤い陣羽織とは、村上武吉が着用したと伝わる陣羽織(能島村上家伝来)のこと。モチーフは当館のシンボルに決定しました。

製作担当は女性メンバー。おもに小袖やよろいの着付けで活躍をする「マドンナ会」と、折り紙サークルの「宮窪町水軍クラブ」です。

「さあ、どうやって作ろうか。」

せんどうさんの一員で、最年長(91歳!)のS子さんは和裁の達人。そこでS子さん宅に集合し、指導を仰ぎながら作ることになりました。


製作開始から20日余り。ついに試作品が完成しました。

さっそく袖を通した矢野館長(写真)。
「素晴らしい!着心地も良いし、既製品にはない味がある。」と興奮気味。

「赤い帽子も作ってあげらい(笑)」と、せんどうさんもご機嫌。

完成が楽しみです。

一方、歴史好きの男性メンバーは、週末は、現在開催中の特別展の解説で大忙しです。
この陣羽織を着て、活動する姿が見られる日も近いでしょう。

博物館活動を盛り上げてくれるミュージアム・パートナーのみなさんには、感謝の気持ちでいっぱいです。私たちスタッフにできることは、充実した活動を行うことができるような環境をつくっていくことだと思います。(K)

2012年11月2日金曜日

史上初!一般公開 久留島家文書

特別展『海の来嶋・山の久留嶋―来島村上水軍から近世大名久留島家へ』開催中です。



今年、2012年は、来島康親公没後400年にあたる年です。

来島康親公は、戦国期に活躍をした村上通康・通総に続く来島村上家の当主で、1600年の関ヶ原合戦後に、伊予から豊後へと国替えされ、豊後森藩の初代藩主となった人物です。

そこで、通康、通総、康親の三代と、来島村上氏の城であった来島城、そして、豊後森藩に残る文化財にスポットをあてた特別展を開催いたしました(12月16日まで)。

目玉となる展示資料は、これまでは研究者にしか公開されず、門外不出であった『久留島家文書』(個人蔵)です。

この久留島家文書には、戦国末期に来島村上氏が河野氏・毛利氏から離れて、豊臣大名になっていく様子や、文禄・慶長の役(壬申・丁酉倭乱)における来島兄弟(得居通幸・村上通総)の戦死の状況を克明に伝える貴重な古文書が多く含まれています。

今回の特別展では、豊臣秀吉から来島村上氏に宛てた朱印状8点のほか、徳川家康黒印状、豊臣秀頼黒印状、五大老連署書状など、久留島家文書のなかでもとくに貴重な古文書13通を特別公開しています。

朱印のにじみ、古文書の紙質やおり方、毛筆のかすれまで観察することができます。

ぜひこの機会に村上水軍博物館へお越しください。
他の展示資料は、後日ご紹介いたします。(K)

2012年11月1日木曜日

村上水軍博物館スタッフブログがオープンしました!!

全国の水軍ファンのみなさまこんにちは!

いよいよ待望の村上水軍博物館のブログがオープンしました!!

村上水軍研究の真面目な話から、

日常のささいなことまで、

当館スタッフが、瀬戸の魚介のような新鮮な話題をお届けします!(S)