2020年5月4日月曜日

ほうろく玉の謎 おうちで村上海賊‟Ⅿurkami KAIZOKU" №7 こたえ

昭和初期の能島城跡で無数に発見され、「ほうろく玉」の破片と考えられていた生活道具は??

という問題でした。

日本遺産村上海賊公式Twitterでは、お茶碗を選んだ方が多かったようですが、


正解は
 
 
 
 
 
①鍋や釜
 
 
 
 
 
でした^^



 
こちらがその写真。↓
以下、画像の2次利用はご遠慮ください。
 


鵜久森経峰著『伊予水軍と能島城趾』から転載しています。
下段の解説部分の中央の下に「炮禄團(ほうろくだま)」の文字があります。


写真の同じ部分には、土器の破片があります。

これらを見て鵜久森氏は「ほうろく玉」と考えたのでしょう。
そして能島城をたくさんの武器を備えた軍事的な要塞と捉えたのです。


しかし、長年の考古学研究によって、これらは鍋もしくは釜の破片であることがわかってきました。
この時代には鉄製(鋳物)と土製の鍋がありますが、能島城では土製の鍋がよく使われていました。


写真は芸予諸島周辺でよく出土する土器鍋です↓


そして鍋や釜、あるいはすり鉢といった煮炊きや調理に使う土器は、能島城跡の発掘調査で1万点近く(破片の数で)出土しています。

土器鍋は、口の部分の直径が30㎝以上あるものが多いのですが、仮に、鍋いっぱいに火薬を入れた二つの鍋の口をあわせて球体にし、、



・・・・投げ飛ばす^^;


イメージできますでしょうか。
これ、日露戦争で使われた28センチ榴弾砲よりも直径が大きいのです。
とても難しいように思います。

それに鍋や釜は、表面が焦げて煤がついているものがほとんどなので、能島城で出土したものはやはり生活で使われて、廃棄されたものでしょう。


ひとつの土器の破片を武器と捉えるか、生活道具と捉えるか。
遺跡の評価がずいぶん変わってきますね。


では、能島城ではほうろく玉は製造・保管されていなかったのか。
少なくとも、2つを合わせると球体になるような器は、中国磁器の碗などしかありません。
たとえば一つでも火薬が残った状態の碗が出土したら、それも考えられるのですが、いまのところ確認できません。

江戸時代の学者が記した『合武三島流舩戦要法』によると、投げほうろくは「厚紙」、ほうろく玉は「鉛・鉄」と考えられていたことを前回紹介しました。

他の江戸時代の兵法書、たとえば合武三島流よりも古い村上家伝来の『舟戦以律抄』(村上海賊ミュージアム保管)には、「炮轆之図」が掲載されています。





壺です^^;


おそらく兵学者のイメージで記したのでしょうが、まじめにこの図から考察すると、この形は能島城で出土したものの中から無理やり当てはめると、備前焼の壺か中国陶磁の梅瓶に近いとも言えます^^;

とすると、まずは重くて投げるのは難しいでしょう。
それに、備前焼を投げるのはもったいない気がします。
中国産の梅瓶は高級で希少な品なので、爆弾として投げるなんてもってのほか。

文献には登場しますが、実物が見当たらない。
さて、どう解釈したらよいのでしょう。

能島城から出土しないことを積極的にとらえると、「紙や繊維」などで覆われた火薬の玉という説が有力になると思います。これらは有機物なので何百年も土の中では残りにくく、無くなってしまうということ。

そこで連想されるのが「花火」。
ほうろく玉と花火は構造状はよく似ているのかもしれませんね。


ただ、「焼きもの」説もまだあきらめたわけではありません。
じつは、村上海賊の全盛期(室町・戦国時代)よりも前の時代に、陶製の球体容器に火薬を詰めた武器が存在したのです。

それは、「てつはう(鉄砲)」と呼ばれる鎌倉時代に元軍が用いたとされる兵器です。

長崎県伊万里湾にある鷹島には鎌倉時代に元軍が攻め込みました。いわゆる「蒙古襲来」。
この史実を証明する遺跡であり、水中遺跡として全国で初めて国指定史跡となったのが「鷹島神崎遺跡」(長崎県松浦市)です。

鷹島神崎遺跡では2隻の沈没船が発見されるとともに、元軍が使用した爆弾とされる「てつはう(鉄砲)」も発見されました。「てつはう」が炸裂する様子が「蒙古襲来絵詞」に描かれていることから、その存在は知られていましたが、なんと複数個体の実物が発見されたのです。

私Kは、文化庁主催の展覧会『発掘された日本列島2017』で初めてこの「てつはう」の実物を拝見。ひとり大興奮で、ケース越しでしたがじっくり観察しました。
貝が多くついた表面はゴツゴツしていて、器壁は厚く、陶製の球体容器でした。
そして直径2㎝ほどでしょうか、一か所、穴があけられています。

そして球体の内部には、火薬とともに鉄片や陶器片が詰め込まれているそうで、確かにX線CTスキャンの画像を見ると、短冊形をしたそれらしき物体が確認できました。
導火線もその穴から伸びていたのでしょう。
爆発と同時に鉄片や陶器片が飛び散る・・・なんともおそろしい武器です。

写真は許可なく掲載できないので、展示図録に掲載された写真を参考に模式図を作りました。

じつは村上海賊ミュージアムで展示中の「ほうろく玉イメージ復元品」は、この「てつはう」を参考に、直径15㎝で復元しています。




「てつはう」の重さは約2キログラムだそうです。
2キロなら投げ飛ばせるか・・・いや、無理^^;

信長記の記述にみる
「ほうろく火矢というものをこしらえて(略)投入れ投入れ焼き崩し・・・」

この記述などから、ハンマー投げのようなイメージをもっていますが、それに限らず投石機のようなものを考えてもよいのかもしれません。

忍者もほうろく玉を使ったそうですが、展覧会などで見る忍者道具の復元品は、もっと小さく、片手で投げられるサイズ。テニスや野球のボールのような大きさです。実物資料が残っていれば面白いのですが、どなたか情報をお持ちの方はご教示ください^^


さて、この「てつはう」。
なんと陸上の遺跡ではまだ発見されていないそうです。
そして、時代を隔てた村上海賊の「ほうろく玉」との関係もいまはまだわかりません。

ただ、村上海賊の「ほうろく玉」も海底に沈んでいる可能性は無いとは言えませんね。
それに能島城外で作っていた可能性も検証しなければいけません(発掘調査された他の村上海賊関連遺跡でもまだ発見されていませんが^^)。

ほうろく玉は材質・構造、そしてどのように投げ込んだのか、多くの謎に包まれています。
焼きもの説、まだあきらめるのは早い!