2012年12月28日金曜日

古文書研究のプロが集結③-来島城へ-

四国中世史研究会2日目の午後は、参加者のみなさまを来島城へご案内しました。

波止浜港の渡し場に集合。来島・小島・馬島を繋ぐ小さな船に乗って、来島を目指します。小さなといっても定員は58名。定期船ですが、団体利用の場合は予約が必要だそうです。
詳しくは、http://www.go-shimanami.jp/access/g.html


船内で、船員さんに呼び止められました。
「今日は来島の勉強かな。お客さんによう聞かれるから、勉強せないかん思いよるんよ。わしらにも資料をもらえんやろか。」

来島へ上陸するのは、島民の方はもちろんのこと、釣り人が最も多いそうです。この日も3、4人の釣り人と乗り合わせました。時々ですが、来島城の散策をする方もいて、船員さんは質問に答えられるように、来島城や村上水軍の本をかき集めて勉強をされているそうです。
定期船の船員さんが歴史の話をしてくれるなんて、とても良いことだなと思いました。

さて、来島へ向けて出港です。波止浜湾岸を埋め尽くすように並ぶ、建造中の大型船の間を抜けて、約5分の短い船旅です。


かつて「軍艦」とも形容された来島の姿。
海と空の色はオリーブグレー、青灰色とでも表現したら良いのでしょうか。
雲間から差し込む陽に照らされて、いつもより来島が鮮明に見えました。


それにしても、雲行きが・・・。出発前に確認した天気予報は晴れだったはずなのに。
先月11月11日の来島探訪は大雨。以前の記事http://suigun-staff.blogspot.jp/2012/11/blog-post_14.html 嫌な予感がします。

来島に上陸し、今回は海岸部から散策することにしました。しまなみ海道の中世海城の散策には潮汐表は欠かせません。ちょうど干潮に近い時間に見学することができました。


まずは、来島城の特徴とも言える「縦列岩礁ピット」(岩礁に人工的に開けられた柱穴。それが海にむかって一直線に並ぶもの。)「海蝕テラス」(満潮線のやや上にある通路のような平坦面。人工的に成形しているものもある。)を見学。当時、どのように船を繋いでいたのか、岩礁にめぐるテラスをどのように利用していたのか、さまざまな意見が飛び交いました。

ここで嫌な予感は的中。雨が断続的に降り注ぎ、さらに強風が冷えた体に追い打ちを・・・。
しかし、さすがは歴史研究者のみなさん。まったくひるむことはありません。

次に来島の南東側、小さな入り江になっていたと思われる部分から、城の頂を目指します。登り口には丁寧に看板が設置されていました。


来島の南東側には立派な石垣がありますが、海側に面した部分にとくに大きな石を用いています。この辺りは城の大手(正面玄関)と考えられており、正面から見える部分なので石垣を立派に仕上げたのではないか、とも考えられています。しかし、まだ発掘調査や詳細な測量は行っていないため、年代や詳しいことはわかっていません。

左上が古そうな石垣。芸予地震で一部が崩壊し、積み直していますが、
それ以前にも積み替えの痕跡がありました。

この後、郭(くるわ、曲輪とも書きます)を散策し、屋敷地の伝承がある心月庵というお堂の周辺、そして、現在民家が立ち並んでいる入り江の発掘調査成果などを説明し、約1時間半の散策が終わりました。その間、小雨が降りっぱなし。しかしみなさんは大変満足されたご様子でした。

当館の学芸員SとKは二人とも考古学の勉強をしているため、古文書の研究は、外部の先生方の力をお借りして進めています。今回、古文書研究のプロが集結したことにより、新しい発見もありましたし、何よりも、専門家のみなさんとのつながりを作らせてもらったことが大きな収穫でした。ご参加いただきましたみなさん、この場をお借りして厚くお礼申し上げます。

自分だけが勉強をして満足していては意味がありません。この成果をお客様にわかりやすくお伝えするのが博物館の役割ですね。


さて、最後にお知らせです。
当館は、12月29日から1月3日までお休みさせていただきます。
ご来館いただいた皆様、ご指導、ご協力をいただいた皆様、本年も大変お世話になりました。来年もみなさまにとって良い年でありますように、心よりお祈り申し上げます。

年末年始休み中もブログは更新するかも…。(K)



2012年12月27日木曜日

古文書研究のプロが集結②

先日行われた四国中世史研究会。2日目は、当館の古文書を見ていただきました。

ご覧いただいたのは、当館でもっとも重要な史料である『村上家文書』。
村上家文書は、能島村上氏の村上景親の末裔に伝わる古文書で、当館で保管しています。

今回は、とくに重要な中世文書やその写しなど、約50点をプロの目で見ていただきました。
紙の質を見る方、花押に注目される方、ライトと虫眼鏡で観察される方など、着眼点や観察方法はさまざまです。本物を見ないとわからないことが多い、とみなさん口々におっしゃってました。
考古学も一緒ですね。


つばが飛ばないように、静かに観察します。ハンカチで口を押えたり、
マスクをする方も。もちろん、手は綺麗に洗ってくださってます。
暗黙の了解。古文書観察のマナーです。


筆跡が弱いから写しの可能性もあるね。など、私がまったく考えもしなかった意見があり、とても勉強になりました。この勉強の成果は、お客様にお伝えしなければ意味がありませんので、今後の展示に反映していきたいと思います。

専門家の方と一緒に観察していると、すっかり古文書が読めるような気になっていましたね。
が、一人になるとさっぱりわかりません。学問は一朝一夕にしてならず。わかってはいましたが、そんなに甘くはありませんでした。

プロの方は、原文書を見ながらすらすらと読んでいきます。私は、「翻刻」(ほんこく)と言って、くずし字を楷書にして、読みやすくしているものだと、なんとなく意味がわかる程度です。

古文書を勉強してみたい、というお客様は結構いらっしゃいますが、まずは親しみをもつために、翻刻や解説がある資料を勉強するのが良いかもしれませんね。

そこでおすすめの本が、当館が平成17年に刊行した『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』です。


『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』
A4版 214ページ 1000円
ご購入の方法は、当HPの刊行物のページをご覧ください。

重要文書については、写真、翻刻、解説を載せており、とてもわかりやすくなっています。
海賊ライブラリーにも置いておりますし、一冊1000円で販売もしています。
ぜひご覧いただき、一緒に勉強しましょう!(K)


2012年12月25日火曜日

古文書研究のプロが集結①-第61回四国中世史研究会

12月22日・23日、第61回四国中世史研究会が当館で開催されました。

集まったのは四国内だけではなく、東京、大阪、九州からの参加も含む、古文書研究の専門家、約30名でした。

恥ずかしながら私は古文書が読めません。土器や石器は見慣れているのですが・・・。
当館には『村上家文書』がありますので、せっかくプロが集まるこの機会に、いろいろと教えていただこうと思い、会場を提供させていただきました。

初日は最新研究成果の発表の場。
私がよく参加する考古学の研究会とは違って、レジュメには文字がビッシリ。慣れない私は目で追っていくのがやっとでしたが、「なるほどな、こういう解釈もできるんだ。」と思うところも多々あり、とても勉強になりました。

研究会初日のようす


じつは私も会員の藤本誉博さんとの連名で(といっても専門外の私は、お手伝いさせていただいた程度です。)、「史料紹介 新出史料「村上元吉書状」について」と題して、研究発表の場を与えていただきました。

これは、今年2月に当館が入手し、4~6月に企画展『新発見!村上元吉の手紙』でみなさまにご覧いただいた新発見の古文書を紹介するものでした。

この古文書からは、関ヶ原合戦(1600年)直前の、毛利氏と能島村上家の緊密な関係を読み取ることができ、また、これまで発見されている村上元吉の古文書を改めて集めてみると、年代によって元吉のサイン(花押)の形が変化していることがわかりました。


文禄3(1594)年の村上元吉書状(部分、個人・当館蔵)
「元吉」の名前の下に花押(サイン)が書かれます。
☆要不許転載

慶長4(1599)年の村上元吉書状(部分、当館蔵)
左の5年前に出された手紙とは形が違います。
☆要不許転載


 
 



















現在の手紙にも、〇月〇日としか書かないことが多いように、古文書にも〇年まで書かれていないことも多くあります。花押(かおう)の形の特徴をつかむことによって、年号が書かれていない古文書の年代を推定することができるかもしれませんね。元吉の場合は、少なくとも、3~4段階の花押の変化がありそうです。

そもそも、なぜ、元吉は、花押の形を変えたのでしょうか?その理由が知りたいところですが、いまはまだわかりません。みなさんはどう思われますか?
花押以外にも、たとえば朱印の位置、紙の質の違いなども年代を推定するポイントになるそうです。おもしろいですね。
これらの研究は、モノの形の変化から年代を読み取る考古学の手法と通じるものがあるのかな・・・。親近感を覚えました。

2日目は古文書見学と来島城散策でした。その様子は後日紹介します。(K)

2012年12月20日木曜日

クリスマスが近づいて・・



村上水軍博物館の1階ロビーに

今年もクリスマスツリーが登場しました!



水軍バージョンということで、

水軍博物館のキャラクター「のしまくん」を

あちこちにちりばめて♪


毎年受付前に出しているんですが、

受付スタッフの工夫で毎年賑やかになって

きています。



12月からは観光地やミュージアムは

冬の閑散期と言われますが、

そんなときこそ、じっくりと展示品を鑑賞したり、スタッフと語り合ったりできる絶好の機会です!

ゆったりした気分で、博物館や美術館を訪れてみてください。

落葉した能島城跡もとてもよく見えていますよ。



年内は12月28日(金)まで開館しています(S)

※12月29日~1月3日は年末年始の休館日です。








2012年12月17日月曜日

研究成果の発表

『西国城館論集Ⅱ』
編集発行 中国・四国地区城館調査検討会
A4版 190ページ
先日、『西国城館論集Ⅱ』が届きました。


この『西国城館論集Ⅱ』は、中国・四国地区城館調査検討会が編集・発行し、西日本の城館に関する16篇の論文が所収されています。

じつは、拙稿ながら能島城に関する論文も発表させていただきました。

博物館が行っている調査・研究の成果は、展示などで一般の方にご覧いただく前に、まずは報告書や論文、学会などで発表し、学界の評価を仰ぎます。
そして、専門家の方々のご意見やご指導をいただき、次の段階として、ようやくこの成果を展示などでお客様に紹介させていただくことになります。このような、地道な調査研究の積み重ねによって、少しずつ能島城の実像が見えてくるのです。

この『西国城館論集』や、これまで刊行した能島城の発掘調査報告書『史跡能島城跡』(非売品)は、当館の海賊ライブラリーでも閲覧できます。興味のある方はぜひご覧ください。(K)


(参考までに)

書名 『西国城館論集Ⅱ田中義昭先生喜寿記念論集』
編集発行 中国・四国地区城館調査検討会
発行年月日 2012(平成24)年11月24日

この論文集には以下の論文が載っています。

・兵庫県下の礎石建物の普及について
・徳川大阪城石切場の山出し・海出しにみられる協業の問題
・宇喜田秀家の岡山城と豊臣秀吉の大坂城-その相似性-
・戦国期石見銀山をめぐる軍事情勢の一端
・島根の畝状空堀群~松江市宍道町城山城跡の再検討~
・津和野城跡外縁部の遺物をめぐる一考察
・浜田城周辺の調査から
・伯耆八橋城とその城下町
・鹿野城跡出土瓦の検討
・石見丸山城跡の再検討
・山口県の中世城郭について
・山口県における中世方形館の時期について-発掘事例を対象に-
・能島城における海岸遺構の構造と機能
・丸亀城の石垣からみる石積みの特徴について
・川と道と城-地域における予察-
・土佐一条氏家臣団の城郭構築技術再検討

(執筆者名は省略させていただきました)

2012年12月13日木曜日

けあらし?

今朝のこと。ふと外をみると、海から湯気が立ち昇っているのが見えました。
けあらしだ!しかもすでに消えかけている!

急いで、愛用の一眼レフカメラを手に外へ飛び出し、岸壁に立って、カメラを構えました。
が、なんとバッテリーが切れているではないですか。シャッターが下りません。
なんで充電しておかなかったんだ・・・。

あきらめるのはまだ早い、と、コンパクトデジカメを手に再び飛び出しました。
が、時すでに遅し・・・。能島城の周辺の湯気は消えていました。

能島城遠景。すこし遅かった。残念。

かろうじて、砂浜沿いでは見ることができました。

すこしだけ湯気が出ているのが見えませんか?

“けあらし”は、大気の温度より海水の温度が高い場合におこる現象で、海面から湯気が出ているように見えます。冬の寒い朝に見られ、日が昇り気温が上がると消えてしまいます。

過去にも何度か見たことはあったので、撮影のチャンスをうかがっているのですが、まだ成功したことはありません。いつか、霧に囲まれた能島城の写真を撮ってみたいと思っています。

カレイ山展望公園が一番良い撮影スポットなんだろうな・・・。(K)


2012年12月11日火曜日

久留島家ゆかりの地を訪ねて③-三島神社と栖鳳楼-

この立派な石垣が角牟礼城ですか?数年前、初めて玖珠町森をおとずれたとき、ご案内いただいた方にそう尋ねたような気がします。


まるで城の石垣
 
角埋山の麓にある、城と見間違えるほどの立派な石垣。今治市大三島に鎮座する大山衹神社を勧請した、三島神社(現在は他の神社と合併して末廣神社)の石垣なのです。


末廣神社の御神殿を覆う鞘堂(大分県指定有形文化財)

総欅(けやき)造りの立派な御神殿。鞘堂で覆われており、通常は見ることはできませんが、大分県有形文化財に指定されています。

さて、三島神社を現在の姿に改築を行ったのは、8代森藩主の久留島通嘉(くるしまみちひろ)と言われています。小大名であったため城を持つことが許されなかった森藩。城持ち大名に、という代々藩主の念願を、別の形で通嘉が実現した、とも言われています。


栖鳳楼(大分県指定有形文化財、玖珠町教育委員会提供)
平成12年から3年かけて保存修理が行われました。

三島神社の境内には、通嘉が1832(天保3)年に整備したとされる栖鳳楼(せいほうろう)があります。2階建てですが、1階から2階へと通した柱がない、また1階の屋根は瓦葺きなのに、2階は杉皮葺き、といったように、珍しい構造の建築物だということが保存修理工事によってわかりました。また天井裏には、断熱のためか籾殻が敷き詰められていたようで、修理時には忠実にそれが再現されました。


2階のようす

「紅葉の御茶屋」とも呼ばれ、茶会や迎賓に使用されたようです。2階からは眼下に庭園、そして城下の面影が残る家並み、さらに遠くは九重連山を見渡すことができます。

栖鳳楼庭園(玖珠町教育委員会提供)

2階から城下、九重連山方面を望む(玖珠町教育委員会提供)


今回の特別展では、末廣神社所蔵の「伝秀吉より拝領の具足下着」をお借りしています。

じつは、借用交渉の場として宮司さんがセッティングしてくださったのは、この栖鳳楼でした。ご快諾をいただき早々に交渉は成立。その後は、お茶をいただきながら、景色に見とれ、久留島家ゆかりの文化財談義に花が咲きました。


雪化粧が見られる季節を迎えました(玖珠町教育委員会提供)

森藩陣屋がおかれた玖珠町森には8代藩主通嘉が残した文化財が多く残っています。
三島神社の土台づくりから栖鳳楼の完成までかかった歳月は約20年。
通嘉が生涯をかけたこの大事業の裏には、厳しい財政事情の中で造営に携わった人びとの苦しみがあったのでしょう。栖鳳楼で景色を見ながら、ふとそんなことも考えました。

さらにつづく・・・。(K)

2012年12月8日土曜日

特別展会期も残りわずか

現在開催中の特別展『海の来嶋・山の久留嶋-来島村上水軍から近世大名久留島家へ-』。
会期が残りわずかとなりました。12月16日(日)で終了します。


羽柴秀吉書状、豊臣秀吉朱印状、徳川家康黒印状、豊臣秀頼黒印状・・・・。
来島村上氏宛ての有名な大名の古文書。今治市で見られるのも残りわずかです。

興味はあるけど、会期はまだあるから、また今度にしよう・・・。
そう思っていたけど、気づけば終わっていた、なんてことはよくありませんか?

会期は、残り一週間ほどしかありません。ぜひこの機会にご覧ください!

特別展が始まった10月13日から12月7日までの約2か月間で、約8000人のお客様にご来館いただきました。特別展をご覧いただいたお客様にこの場をお借りしてお礼を申し上げます。
ありがとうございました。(K)


特別展図録(A4版 16頁 カラー 300円)
当館にて好評販売中!
郵送での購入をご希望の方は、刊行物のページをご覧ください。


2012年12月6日木曜日

のしまくんも忘れないで

みなさんご存じですか?村上水軍博物館には“のしまくん”というキャラクターがいます。

のしまくん

のしまくんは、旧宮窪町のキャラクターとして誕生しました。イメージはもちろん村上水軍です。
博物館の展示で登場したり、ミュージアムショップしおさい能島でグッズを開発・販売し、それなりに人気がありました。が・・・。

いまや日本一の人気者、バリィさんに圧倒され、館内でもすっかり影が薄くなってしまいました。



 
マンホールの蓋ものしまくん




「グッズも売れんなったわい。かわいそうにねぇ。
せめて看板は大きくしてあげよう思って作りよんよ。」
ショップのスタッフも同情・・・。表示はバリィさんグッズより大きくなりました。

みなさん思い出してください。
宮窪町には“のしまくん”がいることを・・・。(K)



のしまくんグッズのお求めは↓


ストラップ、キーホルダーがあります。
※耳かきは売り切れました。


2012年12月4日火曜日

能島の落葉がすすんでいます。

今日は1か月ぶりに能島へ上陸しました。

水軍博物館では、史跡保護の一環として、
城内の植生の状況や破損箇所がないかなどを定期的にチェックしています。

10日あまり前の記事にあったような木々の色づきはすでに過ぎ、
落葉したサクラやクヌギの枝の隙間からは
潮の流れや周囲の島々がはっきり見えるようになってきました。

→ 11/23(金) 色づく能島②

木々は落葉し、主郭→二之丸→三之丸の段がはっきりわかります


能島を取り巻く潮流と彼方に見える見近島(橋脚のある島)


三之丸から見た荒神瀬戸(能島と鵜島の間)の潮流

右手前の砂浜は能島の玄関口と考えられる「船だまり」


普段は木々に覆われている能島も、

この12月から、新芽が吹く3月までの間、

もっともその形状がわかりやすい季節となります。

対岸の大島にある水場、宮窪港、カレイ山展望公園などから、

郭のかたちを観察してみてください。(S)


2012年12月1日土曜日

久留島家ゆかりの地を訪ねて②-国史跡 角牟礼城跡-

今日は、玖珠町森の角埋山(つのむれやま)に築かれた国指定史跡角牟礼城跡(つのむれじょうあと)について紹介します。


陣屋跡から角牟礼山を望む。頂部付近に切り立った岩盤の崖が露出。

角牟礼城は、標高577m、麓との比高差240mの角埋山に築かれ、枡形虎口(ますがたこぐち)、高石垣などをもった「織豊系城郭」と呼ばれる立派なお城です。

※枡形虎口・・・枡状の四角い形に土塁や石垣を配置して、その一辺に出入口をつくる。敵が簡単に進入できないような構造の虎口(出入口)です。

角埋山の頂部は、三方を切りたった険しい岩盤が露出し、その風貌はまさに「天然の要塞」。城内は、伝本丸、二之丸、水の手曲輪(くるわ)、三之丸と連なり、斜面部には、切岸(きりぎし)や竪堀(たてぼり)など中世の山城の特徴が残っているようです。

近世の編纂資料によれば、築城は12世紀まで遡るとされますが、確かな裏付けはなく、文献史料に初めて姿を現すのは、15世紀の後半と考えられています。


伝大手門跡から伝二之丸の石垣(玖珠町教育委員会提供)

角牟礼城と言えば、露出した岩盤の崖に連なるように築かれた立派な高石垣が有名です。

平成5~8年の玖珠町教育委員会による発掘調査などによって、特にこの高石垣に注目が集まりました。そして、この高石垣は「穴太積み」によるもので、毛利高政が入国していた文禄3(1594)年から関ヶ原合戦前の慶長5(1600)年に築かれたと考えられました。


伝搦手門跡の枡形虎口の出隅石垣。松山城や宇和島城のように、
石垣上の大木が、将来的に石垣を壊さないかと心配です。

1601年に入国した来島康親は、この立派な角牟礼城を居城とはせず、その山麓に陣屋と城下町を築いたというのが一般的な見解でした。その後、新しく見いだされた文献史料によって、二代藩主久留島通春の代まで城が存続し、山上に住んでいたのではないか、という説もだされています。


さらに近年、毛利高政の時代に高石垣が構築されたという説にも疑問が出されました。石垣の技術・技法の年代、文献史料の解釈、出土品の年代の丁寧な見直しが行われ、なんと、来島康親が入国した慶長6(1601)年以降に築いたと考えるのが妥当ではないか、という興味深い新説が提示されたのです。

国指定史跡とはいえ、城のすべてが明らかになっているわけではないのです。実像の解明、魅力の発信にはさらなる調査研究が必要ですね。我らが能島城も同じです。


私が最初に角牟礼城の散策を行ったのは、数年前の7月でした。
岩盤に連なっていく石垣のすごさに呆然とした記憶があります。
仕事の都合で夏にしか行けなかったのですが、山城の散策は冬場をおすすめします・・・。

玖珠町では現在、角牟礼城を中心とした文化財を活かしたまちづくりを進めており、草刈りなどの維持管理は、地元有志の「つのむれ会」の方々が行っているそうです。私も以前、会の方々とお会いしましたが、地元の文化財に対する熱意には大変驚きました。
能島城も見習わなければいけませんね。

つづく(K)


角牟礼城について、くわしくは、下記の本や論文をご参照ください。一般書店にないものもありますが、もちろん、これらは当館で閲覧できますので、ぜひお越しください。

・『角牟礼城(玖珠町文化財調査報告書12)』玖珠町教育委員会 2000年
・『玖珠町史(上巻)』自然~近世 玖珠町 2001年
・『時空を超えて 森藩誕生400年』 西日本新聞社 2005年
・『角牟礼今昔』 つのむれ会 2004年
・木島孝之「「角牟礼城高石垣-毛利高政期構築説」を問う」『城館史料学』6号 城館史料学会 2008年