2020年4月30日木曜日

「加冠状」 おうちで村上海賊”Murakami KAIZOKU” №.6

ゴールデンウィークに入りました。

例年この時期はしまなみ海道がとっても賑わっていますが、同じ時期だとは思えない車通りの少なさ。
みなさんの外出自粛の賜物ですね😊


臨時休館中の村上海賊ミュージアムでは、普段は人の往来があって使えない広いスペースを活用し、未整理の書籍や写真などの資料整理を行っています。


作業中に資料を並べてるところは結構壮観です。
(虫干しも兼ねています)


さて、今回ご紹介する古文書はこちら!


文字数が少ない!!そして文字が読める!!



一応翻刻を載せておくと、


うん、まんまですね。「殿」が崩れているくらいですね。



いつものように整理すると、

❷日付:慶長18年(1613)5月21日 に
❸差出:毛利輝元 から
❹宛名:「村上源八殿」 へ送られた手紙

ということが分かります。



さて、❶本文は…

「加冠」「元」

以上!



み、短い……!!内容がないよう!!!


…と思われるかもしれません。



しかし、文章は短いですが、とっても大切なお手紙なんです。



最初に書かれている加冠(かかん)とは、男の子の成人式=元服です。


今は成人式といえば二十歳ですが、昔はもっと早い。

ここで出てくる「村上源八」は、慶長13年(1608)生まれ。

つまり、この時点でまだ6歳!

この手紙が書かれる3年前の慶長15年(1610)2月9日、源八郎の父・景親が53歳で亡くなり、兄・八助が跡を継ぎます。しかし、その八助も慶長18年(1613)3月21日に11歳の若さで早世……😢
次男の源八郎が幼くして家督を継ぐこととなったのです。
(「能島家系図」参照)


元服は、大人として社会デビューするための大切な儀式。

元服前は何もかぶらず頭頂部をさらしていましたが、元服で初めて「冠」(※武家では烏帽子)をかぶります。だから「加冠」。
大人になったら常に烏帽子をかぶっているのがマナー(頭頂部を晒していることは恥ずかしいこと)だったのが、この頃には廃れ、公式な場にかぶる程度になっています。

そして、「幼名」ではなく実名(じつみょう)がつけられます。

「実名」というのは、今でいうと「苗字」+「名前」の「名前」部分のこと。(ex「景親」)
昔は大人になって初めて名前がついたんですね。
ちなみに、「源八郎」というのは「通称」。今の大河で明智光秀が「十兵衛」と呼ばれているのも「通称」です。

ここで今回の書状の本文を思い出してください。

「加冠」「

差出人は毛利輝でしたね。

「元」がついていますね!


この古文書は、元服をして実名を名乗るようになる「村上源八」に、主君である「毛利輝元」が自分の実名の一字「元」を与えるお手紙だったのです。

これ以降、「村上源八」は村上と名乗るようになります。



村上元信肖像画(個人・当館蔵)


このように、元服の際、自分の実名の一字を与え、その証拠としてその一字のみを書いて与えた文書のことを

 一字書出(いちじかきだし)加冠状(かかんじょう)

などといいます。

今回の古文書は書き始めが「加冠」とあるので「毛利輝元加冠状」と呼んでいます。

主君が家臣に対して自分の実名の一字を与えるということは、主従関係を結ぶ儀礼として、中近世を通じてよく行われていました。


これまで紹介した古文書に出てきた人でいえば、

毛利輝元の「輝」は、室町幕府第13代将軍・足利義輝の「輝」

毛利秀就の「秀」は、豊臣秀吉の「秀」



では、今回のクイズ。


Q.村上景親は、誰から字をもらっているでしょう🤔?

① 小早川隆「」 ……毛利元就の三男
② 村上「」広  ……村上武吉(景親父)のいとこ
③ 長曾我部元「」……土佐国(高知県)の武将
④ 三村元「」  ……鶴姫の兄

村上海賊ミュージアムマスコットキャラクター
かげちかくん

M


2020年4月29日水曜日

能島城の謎の大穴 おうちで村上海賊‟Murakami KAIZOKU" №5 こたえ

能島城の謎の大穴・・・
風呂、水ため、秘密の抜け穴、いけす・・・みなさんは何だと思いましたか??



みなさんのご意見は、ぜひ日本遺産「村上海賊」公式Twitterでご確認を^^

これ以外にも、塩づくりの遺構ではないか、巨大な柱があったのでは、などという説も。
一つの穴と、それを取り巻く状況からその用途を推定する・・・面白いですね^^


いまだ定説はありませんが、村上海賊ミュージアムでは、
水ため説を提唱しています。



じつは能島城内には井戸や湧水地は発見されていません。

水は、対岸の大島にある「水場」(あるいは鵜島)から運んだり、最近明らかになってきたのですが、どうやら城内で雨水も溜めて利用していたようです。

海賊たちは、水の確保に苦労していたようですね。



じつは能島城だけではなく、甘崎城、来島城、武志・中途城など、海賊たちの「島の城」の対岸には「水場」という地名が残っていて、水や物資を供給する拠点だと考えられています。

この大穴は斜面の裾にあります。そして、残念ながら崩落してしまっていますが、城内から続く通路もまっすぐこの大穴まで伸びていて、通路を流れた雨水もこの大穴に溜まる仕組みになっていた・・・としたら、とても面白い工夫ですね。


というのも、この大穴。
能島城だけにあるものではなく、来島村上氏の村上吉継の城である「甘崎城」にも存在するのです。



現在は落ち葉で埋まっていてわかりにくいのですが、数メートルしか離れていない場所に2つの大穴があります。満潮ラインよりも上にあり、波浪以外では海水が入らない点も能島城と共通しています。


これが南大穴↓
 


数メートル離れたところに北大穴↓
 


20年近く前に行われた発掘調査では、あまりの深さに底まで到達しなかったようです。
そして北大穴は郭から続く城内通路の真下にあるのです。



城と海とをつなぐ場所にある遺構・・・。
通路が水路の役割を果たし、流れた水を溜めたと考えることもできるでしょう。

以上が、私たちが「水ため」説を推している根拠になります。
ただ、まだまだ確証はありません。


その理由は、能島城にあるもう一つの大穴のレプリカ。



これが現地です。




そう、浅いのです。
と言いますか、ほとんど底の部分しか残っていません。ただ、もともとこの浅さではなく、潮汐(潮の満ち引き)による浸食や波浪による崩落しなどを繰り返し、この状態になったと思います。

しかし、この立地からは、とても2m超の深さを想像することはできません。。

掘る途中で止めた?

何か別の使われ方があった??


水ため説に少し自信が持てない理由です。
そして、同じような穴が、岩城島の亀山城の近くにも・・・。これも現状では浅い。



来島村上氏の来島城では、大穴は発見されていませんが、埋め立て地が多いので、その下に埋まっているのかもしれません。

繰り返しになりますが、村上海賊ミュージアムでは能島城の2つの大穴のレプリカを展示しています。いまはまだ「謎の大穴」として展示していますが、この臨時休館中にもう少し踏み込んで解説してみようかな。

K


2020年4月28日火曜日

能島城の謎の大穴 おうちで村上海賊‟Murakami KAIZOKU" №5

村上海賊ミュージアムのガイダンスホールの一角にある巨大な岩・・・
中央に大きな穴が開いていますね。



さて、これは何でしょう?

という問題ではなく、みなさんにこれは何かを考えていただこう、というのが今回の趣旨。
これは、能島城跡の岩礁部にある「謎の大穴」の「レプリカ」です。


こちらが現地の写真↓



写真ではピンとこないかもしれませんが、穴の入口の大きさは、直径128㎝。
このサイズの大穴が、能島城には、東部海岸と南部海岸に1か所ずつあります。

能島城跡の説明を聞いたことがある、紹介記事を読んだことがある、という方はご存じかと思います。いわゆる「岩礁ピット」ですね。

海岸部に海賊たちがあけたと考えられる「穴」です。
通常は、直径20~40㎝のものが多く、潮間帯と呼ばれる干潮ラインと満潮ラインの間や、満潮ラインのやや上、海に浸からない部分にたくさんあります。


通常の岩礁ピットはこんな感じ↓↓




この岩礁ピットは能島城跡の北側、「船だまり」と呼ばれる場所で、唯一潮の流れが穏やかな海岸にあります。城の船着き場と考えている場所ですが、この穴にマツの木を立てて、船を繋いでいたのでしょう。

次の写真は満潮時です。満潮ラインよりも少し高い位置に、約2mの間隔で3個の岩礁ピットが並んでいます。ここに木を立て、船を繋いでいた姿が想像できますでしょうか。



このように、村上海賊の城にある「岩礁ピット」のメインの使用方法は、「船を繋ぐための柱穴」と考えています。その他にも護岸用や土留め杭穴などがあったのでは?と、最近の研究で指摘されています(・・・指摘しているのは私Kですが^^;)


さて、話を大穴に戻しましょう。通常のものより大きいので「大型岩礁ピット」と呼んでいます。

じつはこの大穴、昔からその存在は知られていましたが、その深さや構造などはまったくわかっていませんでした。昔、ピンポール(金属の細い測量用の棒)を刺してみたことがある、という地元の方の話によると「1m以上はあるよ」とのこと。

平成27年度の調査で、初めて発掘調査が行われ、穴に埋まっていた土を掘り下げました。
すると、深さはなんと2m超。そして、底近くには海側とは反対に横穴が1mほど掘られていることがわかったのです。




写真だとわかりづらいので、断面図を作ってみました↓



この穴は、大潮時の満潮ラインよりも高い位置にあるので、台風の時などは入るかもしれませんが、日常的には海水は入りません。


埋まっていた土からは、「かわらけ」と呼ばれる素焼きの土器の皿がたくさん発見されました。その年代は16世紀のものだとわかったので、つまりこの穴が埋まったのは、16世紀よりも後、ということになります。16世紀はまさに村上海賊の全盛期!
先日紹介した土錘(どすい)も出土していました^^
みなさん、覚えていますか?魚をとるための網につけたおもりです。




さらに、これもまた近年の調査でわかってきたことですが、この大穴の近くから、城内の郭(城の平坦面)へとつづく通路状の遺構が発見されました。

さて、このような状況がわかってきたのですが、ここでみなさんにアンケート。
この穴は何に使われたと思いますか??


① 風呂 ・・・疲れた海賊たちが汗を流し、城へと登っていく!

② 水ため ・・・島ではとくに水が貴重。この穴に船内で使う水などをためた!

③ 秘密の抜け穴 ・・・を掘りかけて途中でやめた。

④ いけす ・・・新鮮な魚を生かしておきます


K

2020年4月27日月曜日

おうちで村上海賊”Murakami KAIZOKU” №.4 こたえ

正解は…



神仏に誓って約束します




でした!



さっそく本文の内容を見てみましょう。

翻刻してみると…



漢字ばっかり!!
でもところどころひらがなの助詞があって日本語であることが分かると思います。

翻刻だけでは内容がよく分からないと思いますが、

なんとなく

●前半部分は「一、〇〇…」というような箇条書きで書かれている
 ※「一」は「ひとつ」と読みます。こういう箇条書きを「一つ書き」といいます。

●後半部分には、神仏の名前がいくつか挙げられている

ということはわかるでしょうか。




では、書き下してみましょう。


  敬白す、起請文の事、

一、去年、殿様より御書の砌、ただ今までの儀は、私の覚悟少しも二心存ぜず候、最前豊前表の入組の儀は、各奉行衆へも申し上げ候、その外の儀は、至って何方にも我等申し調え仕らざる事、

一、武吉の事も殿様に対し奉り疎略に存ぜざる事、

右、偽申すに於いては、日本国中大小の神祇・天満大自在天神、別して八幡大菩薩・愛宕白山氏神、御罰を罷り蒙るべきものなり、よって起請文件の如し、


現代の言葉に直してみると


謹んで申し上げます。起請文のこと。

一、去年、殿様(=毛利輝元)から御書(をいただいた)時、ただ今までのことについては、私(=村上景親)の覚悟に少しも(輝元に対する)裏切りの心はありません。この間の豊前方面での問題については、各奉行衆へも申し上げました。その外については、まったくどこにも私は仕官することはありません(という)こと。

一、武吉も殿様に対して疎略には思っていない(という)こと。

右(の2点について)、(私が)偽りを申していたのであれば、日本国中大小の神祇・天満大自在天神、とりわけ八幡大菩薩・愛宕白山氏神(から)御罰を受けるでしょう。よって起請文は以上の通りです。


前半部分に箇条書きで書かれている内容(①私・景親は輝元を裏切りません、②父・武吉も輝元を疎略に思っていません)について嘘偽りがないことを、「神仏に誓って約束」していることが分かります。


今回の書状のように、自分の言っていることが嘘偽りではないことを神仏に誓い、相手に表明する「宣誓書」のような手紙のことを、

起請文(きしょうもん)

といいます。

文章中にも出ている言葉ですね。

誓約する内容を書いた前半部分を「起請文前書(きしょうもんまえがき)
誓約に嘘偽りがあった場合神罰を受けるという後半部分を「神文(しんもん)

といいます。


この「神文」部分を書く料紙として、「牛玉宝印(ごおうほういん)」がよく用いられています。
※必ず牛玉宝印を使っているわけではありません。


「神文」の部分には、起請文の当事者の信仰している神仏が書かれます。

村上海賊の信仰は…?

他の起請文と併せてみてみると面白いかもしれません。


村上武吉の起請文に出てくる「三島大明神」は村上海賊の氏神として崇めた大山祇神社か




さて、

今回の内容は、村上景親(と父・武吉)が輝元を裏切りません!と誓う内容でしたが、なぜこんなものを出す必要があったのでしょうか🤔?


文章中に「最前豊前表之入組之儀」という部分がありましたね。

「豊前」というのは、今の福岡県・大分県の一部。

「入組」というのは、『日本国語大辞典』で引くと、「人と人との関係が、面倒な事情などのため、すっきりしないこと。なかなか解決しないごたごた。でいり。いざこざ。」とあります。

豊前での問題とは…?

この手紙が出されたのは、慶長6年(1601)8月20日。

関ケ原の戦いの翌年です

関ケ原の戦いでの敗戦後、毛利氏は領国を中国地方11か国から防長2か国(今の山口県)に減封されてしまいました。

大幅な領地替えと、石高の減少。

多くの家臣が毛利氏のもとを去っていきました……😢

一方この頃の「豊前」には、関ケ原の戦いで徳川方につき、その軍功によって豊前国に入封していた「細川忠興」がいます。

小さくなった毛利家とは対照的に大きくなった細川家。

大きくなった分、それに見合った家臣団を整える必要があります。

そこで細川忠興はいい人材をヘッドハンティングしていくわけですが、その中に、村上海賊や小早川氏の水軍などの人物もいました。

たとえば、村上武吉のいとこ・村上景広や、小早川氏の重臣である乃美宗勝の子・乃美景嘉、来島村上氏系の村上吉郷村上景房などが細川家に召し抱えられています。


この書状を書いた村上景親も豊前の細川忠興による勧誘を受けたのでしょう。

しかし、景親はその勧誘を断り、他家には仕えないということを毛利氏に誓ったのです。





この書状に関係する起請文がもう一通、村上海賊ミュージアムにあります。



こちらは、先ほどと同日付の慶長6年8月20日に毛利氏の重臣・堅田元慶(かただもとよし)から村上景親に出された起請文。

堅田元慶は、景親が毛利氏のもとに留まったことを称賛し、今後も変わらず親交することなどを誓約しています。


毛利氏を去っていく家臣がいる状況…
今回の景親の起請文のように、他の毛利氏の家臣による「輝元を裏切りません」と誓う起請文が「毛利家文書」の中にいくつか残っています。
(が、今回長くなってきたのでそろそろカット!気になったら調べてみてください!)


”指切りげんまん嘘ついたら針千本の~ます!”

のような「起請文」。

ぜひ皆さんも何かを誓うとき、「起請文」を書いてみてください😊





【おまけ】

本文をよく見ると



文章の途中にスペースが。

このスペースには意味があります。

この部分が文章のどこにあたるかというと


「去年 殿様
「奉対 殿様


両方とも、「殿様」の前にスペースがありますね。

「殿様」というのは「毛利輝元」のこと。

「殿様」の前に一文字あけることによって、輝元に対して敬意をはらっているのです。

このように、敬意を表すべき文字の前に一文字あけることを

闕字(けつじ)

といいます。

この他にも、
  • 敬意を表すべき文字の前で改行して、その文字が行の一番上に来るようにする「平出(へいしゅつ)
  • 改行+他行より高い位置に書く「擡頭(たいとう)
など、いろんな敬意表現があります。



※開催中の企画展「さらば、村上水軍博物館~なぜ村上「海賊」なのか?~」で展示中の「村上元吉書状」に見える「平出」の敬意表現


文章の途中に不自然な改行とかスペースとかがあれば、敬意表現かも!


古文書っておもしろい😊

M









2020年4月26日日曜日

おうちで村上海賊”Murakami KAIZOKU” №.4



「おうちで村上海賊”Murakami KAIZOKU”」も4回目となりました。

普段敬遠されがちな古文書に親しんでいただきたいと思い、№2に引き続き、村上海賊ミュージアムの古文書の紹介をします!

今回はこちら。



※画像の二次利用はご遠慮ください🙇


№2の復習。

古文書(こもんじょ)」というのは、

誰かから誰かへと意思を伝えるために書かれたもの

でしたね。

今回は誰から誰へ書かれたものなのでしょうか。

どこに名前が書かれているか分かりましたか?



❸と❹のところが差出と宛名です。

❷年月日は「慶長六年八月廿日」
❸差出は「村上三郎兵衛尉景親」=村上景親
❹宛名は「福原越前守殿」=福原広俊

慶長6年(1601820日に、村上景親が毛利氏の家臣である福原広俊宛に出したお手紙です。
※前回、花押はサインと言いましたが、今回の書状では景親の花押がなく、出したはずの手紙が相手の元ではなく、出した側の村上家に残っているので、原本ではなく、「案文(あんもん)」=控えの可能性があります。

さて、本文の内容に入る前に…

なんか後ろの方がごちゃごちゃしていて見にくくなかったですか??

後半部分を拡大すると…



黒い何かがたくさん描かれていますね。

ちょっと薄く見えるのは、絵が刷られている面が裏側にきているからです。

分かりやすいように一部をなぞってみました。



何が書かれているか分かりましたか?

黒い何かは、神の使いである「カラス
もう一つなぞってあるのは「宝珠」です。

この特徴的な紙は、カラスと宝珠を組み合わせた烏文字を刷った熊野三山(本宮・新宮・那智)の護符で、

「牛玉宝印(ごおうほういん)」

といいます。
牛玉宝印は熊野以外にもありますが、ここで用いられているのは熊野のものなのでそう説明しています。

現在でも熊野に行けば授与品の一つとしてあります。
三山でデザインが違います
こちらはMの私物の本宮大社のもの。烏文字で「熊野山宝印」と書かれています。
今回の書状に用いられたものは那智のもので「那智瀧宝印」。


カマドの上(現今はガスの元栓)にまつれば火難をまぬがれる
門口にまつれば盗難を防ぎ
懐中して飛行機、船にのれば、船酔い災難をまぬがれる
病人の床にしけば、病気平癒となる


など、あらゆる災厄から護ってくれると書かれています。


こんな厄除けの護符を、なぜ書状につけているのか…?

本文の内容に大いに関係しています。


ここで問題です。


Q.手紙に書かれている内容を予想してみよう!

①困ったときは神頼みですよ
②早く病気が治るといいですね
③航海の安全を祈っています
④神仏に誓って約束します・・


答えと本文の解説はまた明日!


M

2020年4月25日土曜日

おうちで村上海賊”Murakami KAIZOKU” №.3こたえ

みなさん、わかりましたか^^

この期におよんで、ヒントの画像です。

 
昭和の時代に、ここ今治市宮窪町の漁師さんが使っていたものです。
同じようなものがついています。
 
 
 
もうおわかりですよね^^
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そう答えはこちら。
 
 
 
② 魚をとる網につけるおもり
 
 
でした。

 
これを、私たちは土でできた錘(おもり)なので、土錘(どすい)と呼んでいます。
 
 
 
もう一度この写真。
 
 
この写真は43個がまとまって出土していますが、土の中で「網」の部分だけ腐って無くなってしまい、土錘だけが残ったということでしょう。
 
 
能島城跡では、総数で500個以上が発見されており、その出土数は、全国の城跡で最多クラス。
海辺なので当然と言えば当然かもしれません。
 
 
ただ、海賊たちが能島城で漁をしながら暮らしていたことがわかります。
海賊たちのエネルギーの源はやはり宮ノ窪瀬戸の新鮮な魚だったのでしょう。
 
 
そして、№2で紹介したように、新鮮な魚介類をお歳暮として大名に送ることもありました。
ひとつひとつを手にとると、とても小さな遺物なのですが、海賊たちの暮らしぶりを物語る大切なものなのです。
 
 
K


2020年4月24日金曜日

おうちで村上海賊”Murakami KAIZOKU” №.3

村上海賊ミュージアムの常設展示室。第1室は「ここは海賊、能島の海」です。
部屋に入るとすぐ右側には大きな窓があり、村上海賊の代表的な海城、能島城跡(国指定遺跡)を望むことができます。



窓に貼ってある額縁を覗いてみましょう。
能島城跡が中心に見えるように設置されています。額縁は大人用と子供用があります。



この写真は、カレイ山展望台から。キレイですよね。



ん・・・でも、城といっても建物ないよね!? ただの島では??

そう思った方もいるかもしれません。
たしかに天守閣や立派な石垣はありません。でも立派な城跡なのです。
城というじは「土」から「成る」と書きますよね。
能島城自体の詳しい紹介は、語りだすととても長くなりますので、また開館後に展示室を見ていただけると嬉しいです。

さてこの能島城跡。
平成15~27年度にかけて、発掘調査など学術的な調査が行われてきました。
その成果は展示室で知ることができますが、今回は能島城でたくさん発見されたある出土品を紹介します。

ある出土品とはこれ。
土製の焼きものです。


中央が少し太く、上下の端が細くなっている棒状のもの。そして穴が開いています。
細い竹か何かに粘土を巻き付けて作ったのでしょう。

大きさはさまざまですが、だいたいこれくらいのものが多いかな。

 
能島城跡の発掘調査で、500個以上が出土しています。

ある先生の研究によると、中世の時代に築かれた城郭から、これらはよく出土するそうです。海城、山城など立地を問わず・・・。

そして能島城のこの製品の出土数は、おそらく全国でも最多クラスでしょう。
能島城内の南部平坦地と私たちが呼んでいる中世の埋め立て地では、43個がまとまって出土しました。

出土した時の様子はこちら。

 
 
このような状態で出土するのは大変珍しいことです。
 
ところでみなさん、これが何かという説明がないので、モヤモヤ、イライラしていると思います。
  
申し訳ございませんが、ここで問題です!
ズバリ、これは何でしょう。
 
 
①そろばんの玉
 
 
②魚をとる網につけるおもり
 
 
③ネックレス
 
 
④武器
 
 
こたえは明日!
 
 
K




2020年4月23日木曜日

おうちで村上海賊”Murakami KAIZOKU” №.2こたえ




正解は

④ 牡蠣





と、


 銭


 でした😊

こちらがツイッターの投票結果。



実はいじわるで、一番読めそうな「蛎」が虫へんなので、同じ虫へんの「蛸」を入れたり、あえてヒントのかげちかくんの絵を「鯛」を釣っている絵にしてみたのでした😊

どこに答えが書いてあるのかというと…

赤く色を変えた部分には

②青銅百疋
④蛎一桶

と書いてあります。

④は「蛎」という漢字が読めたらOK
「かき」と入力すると、変換にきっとこの「蛎」もあるはずです。

②は上級者向けです、分かった人はスゴイ!


「青銅」というのは「銭」のこと。

能島で発見された永楽銭。写真で見ると「青銅」なのが分かりますね。

「百疋」というのは一貫文。
「一疋」が10文。10文×1001,000文。1,000文のことを「一貫文」といいます。



一貫文のイメージ図。銭の真ん中に開いている穴に紐を通して(貫いて)います。
時期によってお金の価値も変わりますが、一文50100円くらいとして、一貫文は510万円くらい。
M「私たちに配布されるのは一()文くらいですね」
館長「ほうかん(・・)」 ※宮窪弁で「そうですか」


さて、全体の文章を翻刻してみると…
※古文書でいう「翻刻(ほんこく)」とは、書かれた文字を解読し、現代の文字に置き換えること!



と書いてあります。


漢字しか書いてない!漢文!?……と思うかもしれませんが、国語の時間に習う漢文とは違います。
語尾に「です」「ます」のような丁寧語「候」をつけた文章で、読んでみるとちゃんと日本語ですよ。
お手紙用の書き方なので、しゃべり言葉よりちょっと堅苦しい感じがします。


読み下してみると

歳暮の儀として/青銅百疋ならびに/蛎一桶到来、/祝着の至りに。/なお明春の慶事/申すべく。恐々かしく。

「候」が文章の最後の部分にきていますね。


現代の言葉に直してみると

(景親から)歳暮として青銅百疋(銭1,000文)と牡蠣一桶が(輝元の元に)届いたことは、とても喜ばしいことです。なお、新年のお慶びを申し上げます。


お歳暮に「牡蠣」を贈るなんて、海で活躍していた海賊っぽくていいですよね。


今回の問題で選択肢に「鯛」を入れていましたが、


村上海賊三家の内の一家、因島村上家に伝わる古文書の中には


大鯛一喉給ひ候、一段と見事、芳志の至り祝着候」


と、みごとな「大鯛」を1匹贈られた小早川隆景からのお礼の手紙が残っています。
だから「鯛」もこの文書であれば正解でしたね!


海産物の贈り物、海賊っぽくていいですね、うんうん😊


ところで、この書状、実は最近までは本物(原本)はなく、江戸時代に書き写されたものしか残っていないと言われていました。



能島村上氏が萩藩主から送られた手紙を書き写した『御判物御書并御奉書写』のなかにある毛利輝元書状写。


今回の書状と内容がまったく一緒なのに、なぜそう思われていたのか?


今回のこの書状は、毛利輝元の子・秀就の書状だと思われていたからなのです。
平成17年発行の『今治市村上水軍博物館保管 村上家文書調査報告書』に入っているリストにも、「毛利秀就書状」と書かれています。


ここで、前回ポイントと言った花押のお話になります。

今回の書状の花押はこれ。



では、秀就の花押は?



形が違いますね!

花押というのはその人のサイン。

差出人が誰なのか判断する材料になります。
同じ人でも時期によって書き方が変わったりするので、書かれた時期を判別する手掛かりにもなります。

今まで秀就のものだと思われていたこのサインが、実は輝元のサインだったと、最近の研究で気づかれたわけです。

書き写されたものや翻刻されている資料などをみているだけでは分からない、原本の力…!

やっぱり本物がいいですね✨


現在は休館中ですが、この書状、開催中の

企画展「さらば、村上水軍博物館~なぜ村上「海賊」なのか?~」

で展示中です。



今のこの状況がどうなるかわかりませんが、628日まで開催予定なので、落ち着いたらぜひ見に来てくださいね😊

次回もお楽しみに♪

M