2020年5月9日土曜日

「甘崎城を探検しよう!」 おうちで村上海賊‟Ⅿurkami KAIZOKU" 番外編

今回は番外編!!!

大三島の沖に浮かぶ村上海賊の海城「甘崎城」を学芸員Kさんが徹底ガイド!

初の試みで動画にしてみました😀




初めて動画を作ったので、拙かったり、画面酔いとかしちゃうかもしれませんがお許しください😓

皆さんも、新型コロナウイルス終息後、年に数回の大潮の日を狙ってぜひぜひ探検してみてくださいね!!



M

2020年5月8日金曜日

戦国時代の船 おうちで村上海賊‟Ⅿurkami KAIZOKU" №9 こたえ

Q ①安宅船、②関船、③小早船の中で、別名で「海賊船」と呼ばれたと言われているのはどれでしょう。

という問題でした。

こたえはこれ↓
 
 
 
 
②関船
 
 
 
でした^^



1603年に刊行された『日葡辞書』という書物があります。
これは、日本イエズス会が刊行したもので、原題の日本語訳は

「ポルトガル語の説明を付したる日本語辞書」というもの。


この辞書については、『邦訳日葡辞書』(岩波書店)が刊行されており、我々でも当時の用語が簡単に検索できます。



この辞書で、セキ(関)を引いてみました。するとこう書いてあるのです。


Xeqi.セキ(関) 
道路を占領したり、遮断したりすること。また、通行税〔関銭〕などを取り立てて、自由には通行させない関所。また、通行税〔関銭〕を取り立てる人々。(中略) また、海賊。Xeqibune.(関船)海賊船。(『邦訳日葡辞書』より)


当時、関=海賊、という認識があったことがわかります。

室町時代の古文書をみると「予州野島関立」と記されているものがあり、関あるいは関立は海賊のこととこれまでの研究では考えられています。

関船なので、海賊船。
ということで、こたえは②になります。



模型、絵図、近世の兵法書、中世の古文書などからわかる船のことは、前回の記事で簡単に紹介しました。では、考古学的にはどうでしょう。


残念ながらまだ船体は確認されていません。
能島城跡の周辺の海底から揚がる村上海賊時代の鍋や皿などがあります。
これらは船の上で使っていた用具の可能性があるでしょう。



図録『瀬戸内海・中世沈没船の謎』(今治市村上水軍博物館、2013年)より

そして近年、「碇石」と思われる棒状の石が、宮ノ窪瀬戸周辺の海域で次々と引き揚げられました。
長さは55~90㎝くらい。



当時の碇(イカリ)は木製で、それに棒状の石を取り付けておもりにしていました。
この石と思われるものが発見されたのです。以前、水中考古学の専門家と議論したところ、これは小型船の碇石ではないか、という見解になりました。


しかし、これだけ単体で引き揚げられたので、まったく年代はわかりませんし、わりと新しい時代までこのような碇が使われていたという話もあります。

ただ「このようなタイプの碇石」は、中世の時代にも存在していたようです。それを示すのが、小豆島の近くで発見された「水の子岩海底遺跡」です。

船体は見つかっていませんが、海底には室町時代頃の備前焼が大量に沈んでいました。そしてその中には、宮ノ窪瀬戸で引き揚げられたものと類似した形、大きさの棒状の石が12本、一緒に沈んでいたのです。そしてこれらは碇石ではないかと考えられています。


詳しくは、以前開催した特別展の図録『瀬戸内海・中世沈没船の謎』をぜひご覧ください!

 


この図録。Kの力作ですが、あまり売れていません(泣)
在庫はまだありますし、郵送でも購入できますのでホームページをご覧ください^^

ちなみに、岡山県立博物館による水の子岩海底遺跡研究から推定された当時の碇の姿を、地元の漁師で当ミュージアムのパートナー(ボランティア)の方が再現してくれました。
しかし、漁師は納得がいかないようで、「ワシならこう作る」と。


もう一つ、船に関する出土品を紹介します。それは「釘」(くぎ)です。

能島城跡の発掘調査で出土した鉄製品のなかで圧倒的に多いのは「釘」。


ひと口に「釘」と言っても大きく2種類あると考えられていて、一つは建築用、もう一つは船釘です。

建築用釘と船釘をどう見分けるのでしょう。
例えば山口県の上関城跡の研究などで示されていますが、ざっくり言えば、断面が正方形に近いものが建築、平べったいものが船釘、なんだそうです。

うーん、でも。
私Kは、この見分け方が正しいのかどうか、きちんと根拠をもって示すことができるのかと言われると自信がないため、まだ能島城跡の見解を示せずにいます。まずは出土品の事例の収集から始めないといけないですね。

仮に平べったいものを船釘とすると、このタイプはたくさん出土しています。

一番、残存状況の良いものがこちら↓



仮に伸ばすと、手のひらサイズより少し大きいくらい。
扁平な鉄の棒の、頭の部分は少しL字状に屈曲していて、先が大きくU字に折れ曲がっています。

民俗研究によると、和船に使う釘は打ち込むのではなく、あらかじめ鑿で穿たれた釘道と呼ばれる穴をあけ、それに差し込むというもの。縫釘(ぬいくぎ)、通釘(とおりくぎ)、皆折釘(かいおれくぎ)があるそうです。

詳しくは、四国地域史研究連絡協議会編『「船」からみた四国』(岩田書院ブックレット、2015年)

この釘がどの種類にあたるのかは、まだわかりません。このU字の折れ曲がりも使用時のものなのか、後世のものなのか。


村上海賊の造船所などが発見されると面白いのになあー(能島の隣の鵜島には、造船所があったという話がありますが)。と思う今日この頃です。


戦国時代の船の研究。
実態の解明は、これからですね^^


K







2020年5月7日木曜日

戦国時代の船 おうちで村上海賊‟Ⅿurkami KAIZOKU" №9

前回、難波船軍図を取り上げましたので、今日はそれに関連して戦国時代の「船」の展示を紹介します。

いわゆる「和船」の研究は、石井謙治さんなどの造船史研究者によってリードされてきました。1983年に発行された『図説和船史話』(至誠堂)は我々にとっては必携本。現存する模型や絵図、そして江戸時代の兵法書などから当時の姿ができる限り復元されています。

これまでの研究にしたがって、和船の構造を説明しましょう。
まずは、この図をご覧ください。



中世でも古いタイプの和船は、西洋の竜骨(キール/船底の背骨のような材)を持つ構造とは異なるもので、一本の木を刳り抜いた船底材に棚板を取り付けた「準構造船」と呼ばれるものでした。

そして遅くとも16世紀の初め頃には、この船底の刳船材を「航」(かわら)と呼ばれる板材に置き換えた船が出現すると言われています。これがいわゆる「構造船」です。


じつは、私Kがずーっと気になっていることがあります。
大友氏VS毛利氏(村上氏)の船戦の様子を描いた「豊前今井元長船戦図」という絵図が存在しているのですが、それには村上海賊側の武将の名前とともに、次のように船の数が記されています。



兵舩八百艘

丸木舩四百艘



丸木舩??と聞くと、縄文時代以来のそれを思い浮かべてしまうのですが・・・ひょっとして、準構造船のこと???などと妄想しています。
まったくの思いつきなのでまだ仮説とも言えないのですが、なぜわざわざ丸木舟と記されているのか、気になって仕方ありません。


すいません。余談でした。
「豊前今井元長船戦図」(大分市歴史資料館蔵)は、村上海賊ミュージアムで写真パネル展示しています。またの機会にご覧くださいね。



さて、本題の戦国時代の船の話。

こちらが展示風景。




長年にわたる造船史研究によると、戦国時代の船は大・中・小の3種類に分けられます。村上海賊がお好きな方は、ご存じですよね。

写真手前から安宅船(あたけぶね)、関船(せきぶね)、小早船(こばや/こはやぶね)です。

一つずつ紹介しましょう。まずは安宅船。



安宅船は、垣立(かきたつ)と呼ばれる防御板で囲まれた箱型の構造になっており、水夫(かこ/漕ぎ手のこと)は、この垣立の中に隠れます。総矢倉造りなどと呼ばれています。

上の部分に建物があるのが特徴で、前回紹介した木津川口の合戦では、古文書に「勢楼」とありましたね。「勢楼」は、「井楼」とも書き、城などに建てられた高層の櫓(やぐら)のことを言うそうです。有名なのは『肥前名護屋城図屏風』に描かれた大安宅船の絵です。画像を掲載できないので簡単に紹介すると、船の上に「城」が乗っている、という表現になっています。

船体上の建物に突き刺さっている長い棒は「帆柱」です。
風や潮の流れを巧みに利用していたことは想像に難くありませんが、人力による推進も必要不可欠でした。使用したのは櫂(かい)ではなく、櫓(ろ)という長い棒。※あとで動画があります。

この垣立の下にずらーっと櫓が並びますが、その数は50~160丁(櫓の単位は「丁」(ちょう)と言うそうです)ととも言われています。船体の長さは20~30mとも言われていますが、確かではないようです。

水夫は船内にいますし、これだけの数の櫓をさばくとなると、日ごろの鍛錬が必要になります。
銅鑼や太鼓、あるいは統率する人の声によって、漕ぎ分けていたのでしょう。


ちなみに東京都八王子市に現存している安宅船模型(東京都指定文化財)は、櫓が50丁に満たない小型タイプのようですね。

文献研究※によると、元亀4(1573)年に織田信長が琵琶湖岸の佐和山の麓で「おびただしき大船」を造らせたとあり、その翌年には、九鬼嘉隆に「あたけ舟」(『信長公記』)を作るよう命じたとされています。

天正4(1576)年、荒木村重に宛てた織田信長黒印状に「安宅船」(「妙覚寺文書」)とありますし、先のブログで紹介された木津川口合戦における「太船をば勢楼まで組立て」(「毛利家文書」)も同じ年です。

そして毛利氏や小早川氏はやや遅れて建造を開始したようです。信長方の安宅船を見て建造を決断したのでしょうか。

※詳しくは山内譲先生のご著書『中世の港と海賊』(法政大学出版局、2011年)をご一読ください。


一方、安宅船が信長周辺で登場したという説に対し、いやいや、それ以前の永禄年間にはすでに東日本で安宅船が定型化しており、それを信長が瀬戸内海世界へ取り込んでいったのだ、という魅力的な説※も近年発表されています。

※家永遵嗣「後北条領国における長浜城と安宅船」国史跡長浜城跡整備事業報告書』(沼津市教育委員会、2016年)


面白い!


ただ、戦国時代最強の軍船!などと言われていますが、じつは弱点が・・・
船首まで幅広の箱型構造なので、速力や機敏性に欠けるという・・・
そして、波や風に弱いという・・・

当時の伊予国守護、河野通直も鹿島城(松山市)への攻撃の際、このことを嘆いています。

「夜前の風波安宅心元なく候」(『安芸白井文書』)



鹿島城跡↓




 
次は関船。
安宅船に対し、関船や後に紹介する小早船は、当時の文献や絵図ではほとんど登場しないので実態がよくわからない部分が多いのも事実です。

それを前提に、造船史研究による見解を紹介しましょう。

関船は海上の関を破る船を追撃することから名付けられたという説があり、スピードを上げるために船体が細長くなっているとも言われています。
それから積荷を運ぶ船という説から「積船」と称することもあるとか。




これも総矢倉造りで、前回のブログ木津川口合戦では「かこい舟」として登場しましたね。
櫓は30~40丁と言われています。長さは・・・よくわかりませんが15mほどと言う方も。
安宅船と違って高層の櫓(やぐら)は建っていません。

ちなみに、東京都八王子市には関船の模型もあります。


最後に小早船です。



近世初期の「武家万代記」に「小隼」という表現が見られるものの中世の史料には出てこないようです。一般的には、小回りとスピードを重視しており、連絡や偵察などに使われたと考えられています。

村上海賊ミュージアムの屋外には復元船が展示されています。


これは平成2年(1990)に、小佐田哲男先生(東京大学名誉教授)の監修の下、宮窪町が復元を行った第1号船で、全長8.4m・幅2mで、長さ6.6mの5丁櫓を搭載しています。ただこれは小型のタイプのようで、小早船の櫓の数は20~40丁櫓とも言われています。

ちなみに、村上海賊ミュージアム前の海で、毎年7月に「水軍レース大会」が開催されています。
復元された小早船による競漕ですが、和船文化の継承し、村上海賊の歴史に親しむことを主な目的としています。

残念ながら今年の大会の中止が発表されました。やむを得ません。
その代わりに、この映像をご覧ください。櫓(ろ)の操り方もイメージできると思います^^
村上海賊ミュージアムのボランティアクループ「せんどうさん」の雄姿です。


 

12名で1チーム。興味のある方は来年ぜひ参加してみてくださいね^^燃えますよ。


戦国時代の船の研究は、模型、絵図、後世の史料をもとに進展してきました。
しかし、当時の文献にはその構造や役割などは詳しく記されておらず、実際はわからないことだらけ。まだまだ研究の余地がありそうですね。

そして考古学的にはどうか・・・

長くなってきたので、本日はこのくらいで。
明日はもっと詳しく紹介します。


おっと、問題問題。


Q この3つの船の中で、別名で「海賊船」と呼ばれたと言われているのはどれでしょう。


①安宅船

②関船

③小早船

こたえは明日!

K

2020年5月6日水曜日

村上海賊の戦いを描いた絵図 おうちで村上海賊”Murakami KAIZOKU” №.8 こたえ

今回の問題、なかなかにふんわりとしていてやり難かったですね、反省😅


正解……というのはないですが、気づいていただきたかったポイントを挙げていきます。


出てくる人物名と日付に注目!


というヒントを出していました。




先に簡単なので日付の方から見てみましょう。


  • 「難波船軍図」…天正四年七月十五
  • 「村上元吉外十四名連署注進状」…1314(※書状の日付は15日)
  • 『信長公記』…七月十五


合戦の日付が異なりますね。


ここで、もう一度それぞれの資料が「いつ」「誰に」書かれたか確認しましょう。

  • 「難波船軍図」が書かれたのは江戸時代。
  • 「村上元吉外十四名連署注進状」は、7月13日~14日早朝にかけての戦いの報告を2日後の15日にしたもの。差出は合戦に出ていた当事者。
  • 『信長公記』は、織田信長の家臣・太田牛一が信長の事績を記した軍記。


「いつ」というのは、もちろん同時期に書かれたものである方が信憑性がありますし、

「誰に」というのも、書いたのが当事者である方が信憑性が高いですよね。

⚠︎同時期で当事者だからといって完全に信用していい訳ではないです。



ということは、この中では「村上元吉外十四名連署注進状」が一番信憑性が高いでしょう。

そのため、合戦が起きた日は13〜14日が正しいと思われます。





次に、人物名を見てみましょう。量が多いですね😅

3つの資料の登場人物をまとめてみましょう。




挙げようと思えばたくさん違いが見つけられると思うのですが、一番注目していただきたいのはこの方。



「村上元吉外十四名連署注進状」の記述でいうならば、左右に200艘余り配置させてる「勢楼」(=やぐら)を組み立てた大きな船……
絵図の織田方の中でも一番ボスっぽい船の近くにある名前「九鬼」


第一次木津川口合戦についてすでに知っていた方、『村上海賊の娘』を読んだことがある方は気づくかもしれません。

この「九鬼右馬允」=九鬼嘉隆、
実は第一次木津川口の戦いに参戦していないのです。



このように「難波船軍図」は合戦より後の江戸時代に描かれたものなので、多少実際とは異なる情報が含まれています。


しかし、実際とは異なる情報というのも、実際には合戦を見聞きしていない江戸時代の人にとって「第一次木津川口合戦」というものがどういう認識だったのか、何の情報を元にして描いたのか、ということを考える際にとても役に立ちます。


「難波船軍図」を寄託いただく際の調査で、この絵図の元になったであろう資料が見つかりました。(※当時Mはまだいません)


それが、同じく江戸時代に書かれた軍記物語『難波浦船戦記

気になる方はこちらの論文で翻刻されているのでご覧ください。
青木晃「海の合戦譚の兵法・語彙 ―付・『難波浦船戦記』 翻刻―」(『国文学』73号、1995年)


登場人物を見てみると…


完全に一致……!!!

織田方の布陣についても、「難波より住吉の岸に継いで一面に掛け並び」という表現がありますが、絵図もそんな感じですね。



ところで、村上海賊に関していえば、

能島村上氏の中では村上武吉の長男・元吉ではなく、いとこの景広が出ていますね。

同じく江戸時代(1804年)に書かれた『絵本拾遺信長記』にも、木津川口合戦の挿絵として、景広が織田方の船に乗っ取りを掛けている場面が登場します。 
「古典籍総合データベース」で画像が見られます。


後世ではこんな感じで伝わっていたのですね。



さて、今回ご紹介した「難波船軍図」、現在休館中ですが、

企画展「さらば、村上水軍博物館~なぜ村上「海賊」なのか?~」


で展示中です。

終息後にぜひお越しください😀



M

2020年5月5日火曜日

村上海賊の戦いを描いた絵図 おうちで村上海賊”Murakami KAIZOKU” №.8

本日はこどもの日🎏

毎年ゴールデンウィークは、甲冑・小袖の着付け体験や折り紙で兜を作るコーナーで大賑わいですが、今年は休館中😢

終息後はご家族でぜひ着付け体験を😊





さて、もう8回目になりました「おうちで村上海賊」。

M担当回はずっと古文書だったので、ちょっと別のものを……

今回ご紹介する資料はこちら!

個人蔵(村上海賊ミュージアム保管)
※画像の二次利用はご遠慮ください
🙇

こちらの資料は、昨年(2019年)寄託していただき、新たに収蔵した絵図です。


この絵図、何が書かれているか分かりますか?


画面右下の方に何かがたくさん描かれていますね。


一部拡大してみましょう。




描かれていたのはたくさんの船ですね。

「村上」「乃美」など、船の近くに書かれている名前は船に乗っている武将の名前です。

武将の名前の他には、「大坂」「難波」「木津」などの地名も見えます。


このたくさんの船たちは一体何をしているのか。


香川元太郎さんによるイメージ画

この画像、おうちで村上海賊№7でも出てきましたね。


№7で「ほうろく火矢」が使われていた戦い

 第一次木津川口合戦

を描いた絵図なのです。


簡単に説明すると、

当時、織田方の軍勢に包囲され籠城中の石山本願寺に兵糧を運び入れるため、毛利氏は水軍を大坂へと派遣。
この毛利方の水軍に、村上海賊三家(能島・来島・因島)も協力しています。
しかし大坂湾の木津川河口では、兵糧の運び入れを阻止しようとする織田方の水軍が守りを固めていました。
これを突破しなければ兵糧を入れることはできないため、毛利方の水軍と織田方の水軍が木津川河口で激突!

というのが第一次木津川口合戦です。

№7でも説明があったように、「ほうろく火矢」を用いて織田方の船を焼き崩すなどした毛利方が勝利しました。

『村上海賊の娘』の題材にもなった戦いです。




村上海賊の戦いを描いた絵図は数が少なく、とても貴重な資料です
※他には「豊前今井元長船戦図」などがよく知られています。


さて、もう一度絵図全体を見てみましょう。
※最初に載せた画像(本来の天地)は地図の西が上になっているので、見やすいよう北を上にしました。




①                    
天正四年七月十五日未割昼過南風 ※「刻」ヵ
    粟屋右京大夫元信
    児玉内蔵大夫元助
    乃美兵部丞宗勝
    井上伯耆守春忠
    井上民部大輔元成
    村上弾正忠景広
                     

    九鬼右馬允(嘉隆)
    間鍋主馬兵衛尉
    沼野伊賀守
    寺田又右エ門尉生家
    杦原兵部丞
    鎌大夫
    鎌鹿目介
    野口
    小畑                     

文字が小さいので、地名や名前などを地図上に大きく示してみました。
※色分けは、地名毛利方織田方としています。

色分けしてみると、木津川の河口を織田方の船ががっちり固めていることが分かりますね。



ここで、別の木津川口合戦に関係する資料も見てみましょう。



まず1つ目。

「村上元吉外十四名連署注進状」※原文はこちら『毛利家文書』338

注進状(ちゅうしんじょう)」というのは、今でいう報告書のようなものです。

この注進状では、村上元吉ほか14名の毛利方の武将が署名し、木津川口合戦についての報告を行っています。

いつものように情報をまとめると、

日付:天正4年(1576)7月15日
差出:(木津川口の戦いに参加した武将たち)
   木梨又五郎元恒、村上新蔵人吉充、生口刑部丞景守、
   児玉内蔵大夫就英、富川平右衛門尉秀安、村上刑部少輔武満、
   粟屋右近允元如、井上又右衛門尉春忠、包久少輔五郎景勝、
   桑原右衛門大夫元勝、村上少輔五郎景広、香川左衛門尉広景、
   村上河内守吉継、乃美兵部丞宗勝、村上少輔太郎元吉
宛名:(毛利・吉川・小早川氏の奉行人たち)
   児玉三郎右衛門尉(元良)殿
   児玉 東市助(春種)殿
   岡和泉守(就英)殿

本文を要約すると、


  • 去る12日(=7月12日)、毛利氏の船団は岩屋(淡路島)を出発して、和泉国貝塚まで渡り、紀州の雑賀衆と合流。
  • 翌日(=7月13日)、堺津・住吉方面・木津川河口の様子をうかがってみると、織田方の船は、「勢楼」(=高い櫓)を組み立てた大船の左右に200余艘を配置し、河口には「かし」(=船をつなぐために水中に立てる杭や竿)を渡していた。これでは戦わずには兵糧を運び入れることはできない。そのため、雑賀衆と相談した後、織田方を襲撃し、すぐに追い散らした。
  • 織田方の「かこい舟」(=乗っている人を守るために装甲された船)には、和泉・河内・摂津国の陸上の主だった者たちが乗っていたので、13日から14日の早朝までにことごとく討ち果たし、大船も残りなく焼き崩しました。(以下略)

注進状に書かれていた地名や移動などを書き入れてみました。

織田方の船の表現も見ておきましょう。




2つ目。

『信長公記』巻九 国立国会図書館デジタルライブラリー

『信長公記(しんちょうこうき)』というのは、織田信長の事績を記した軍記。筆者の太田牛一は信長の家臣です。

内容を要約すると、


  • 7月15日のこと。中国安芸のうち、能嶋・来嶋・児玉大夫・粟屋大夫(元信)・浦兵部(=乃美宗勝)と申す者が、7・800艘ほどの大船で大坂まで行き、兵糧を(石山本願寺に)入れようとした。
  • それに立ち向かった軍勢は、真鍋七五三兵衛・沼野伝内・沼野伊賀・沼野大隅守・宮崎鎌大夫・宮崎鹿目介・尼崎の小畑・花隈の野口。こちらも300艘ほどで出ていき、木津川河口を塞いだ。
  • 海上の戦いでは、毛利方は「ほうろく火矢」というものを作っており、織田方の船を取り囲んで(ほうろく火矢を)くりかえし投入れて焼き崩してきて、織田方は多勢に無勢で敵わなかった。
  • 真鍋)七五三兵衛・(沼野伝内伊賀&大隅守・(宮崎)鎌大夫&鹿目介・(花隈の)野口・(尼崎の)小畑(花隈の)野口、その他、主だった者たちが討ち死にした。



出ました「ほうろく火矢」!
さきほどの注進状と併せて見ることで、毛利方の攻撃方法がわかりますね。



次に、今まで見てきた資料の性質を見てみましょう。

  • 「村上元吉外十四名連署注進状」は、7月13日~14日早朝にかけての戦いの報告を2日後の15日にしたもの。差出は合戦に出ていた当事者。
  • 『信長公記』は、織田信長の家臣・太田牛一が信長の事績を記した軍記。
  • 「難波船軍図」が書かれたのは江戸時代。


歴史資料を扱う際は、常に「いつ」「誰が」書いたものかに注目します。



さて、上記を踏まえて今回の問題です。


「難波船軍図」、「村上元吉外十四名連署注進状」、『信長公記』それぞれの記述での記述の違いを探そう!!

ヒント:出てくる人物名と日付に注目!(太字にしてます)

今回は4択ではなく、ちがい探し😊

日本遺産「村上海賊」ツイッターにリプライで自由に回答してください!
(※こちらからの返信はできません、ごめんなさい🙇)


M






2020年5月4日月曜日

ほうろく玉の謎 おうちで村上海賊‟Ⅿurkami KAIZOKU" №7 こたえ

昭和初期の能島城跡で無数に発見され、「ほうろく玉」の破片と考えられていた生活道具は??

という問題でした。

日本遺産村上海賊公式Twitterでは、お茶碗を選んだ方が多かったようですが、


正解は
 
 
 
 
 
①鍋や釜
 
 
 
 
 
でした^^



 
こちらがその写真。↓
以下、画像の2次利用はご遠慮ください。
 


鵜久森経峰著『伊予水軍と能島城趾』から転載しています。
下段の解説部分の中央の下に「炮禄團(ほうろくだま)」の文字があります。


写真の同じ部分には、土器の破片があります。

これらを見て鵜久森氏は「ほうろく玉」と考えたのでしょう。
そして能島城をたくさんの武器を備えた軍事的な要塞と捉えたのです。


しかし、長年の考古学研究によって、これらは鍋もしくは釜の破片であることがわかってきました。
この時代には鉄製(鋳物)と土製の鍋がありますが、能島城では土製の鍋がよく使われていました。


写真は芸予諸島周辺でよく出土する土器鍋です↓


そして鍋や釜、あるいはすり鉢といった煮炊きや調理に使う土器は、能島城跡の発掘調査で1万点近く(破片の数で)出土しています。

土器鍋は、口の部分の直径が30㎝以上あるものが多いのですが、仮に、鍋いっぱいに火薬を入れた二つの鍋の口をあわせて球体にし、、



・・・・投げ飛ばす^^;


イメージできますでしょうか。
これ、日露戦争で使われた28センチ榴弾砲よりも直径が大きいのです。
とても難しいように思います。

それに鍋や釜は、表面が焦げて煤がついているものがほとんどなので、能島城で出土したものはやはり生活で使われて、廃棄されたものでしょう。


ひとつの土器の破片を武器と捉えるか、生活道具と捉えるか。
遺跡の評価がずいぶん変わってきますね。


では、能島城ではほうろく玉は製造・保管されていなかったのか。
少なくとも、2つを合わせると球体になるような器は、中国磁器の碗などしかありません。
たとえば一つでも火薬が残った状態の碗が出土したら、それも考えられるのですが、いまのところ確認できません。

江戸時代の学者が記した『合武三島流舩戦要法』によると、投げほうろくは「厚紙」、ほうろく玉は「鉛・鉄」と考えられていたことを前回紹介しました。

他の江戸時代の兵法書、たとえば合武三島流よりも古い村上家伝来の『舟戦以律抄』(村上海賊ミュージアム保管)には、「炮轆之図」が掲載されています。





壺です^^;


おそらく兵学者のイメージで記したのでしょうが、まじめにこの図から考察すると、この形は能島城で出土したものの中から無理やり当てはめると、備前焼の壺か中国陶磁の梅瓶に近いとも言えます^^;

とすると、まずは重くて投げるのは難しいでしょう。
それに、備前焼を投げるのはもったいない気がします。
中国産の梅瓶は高級で希少な品なので、爆弾として投げるなんてもってのほか。

文献には登場しますが、実物が見当たらない。
さて、どう解釈したらよいのでしょう。

能島城から出土しないことを積極的にとらえると、「紙や繊維」などで覆われた火薬の玉という説が有力になると思います。これらは有機物なので何百年も土の中では残りにくく、無くなってしまうということ。

そこで連想されるのが「花火」。
ほうろく玉と花火は構造状はよく似ているのかもしれませんね。


ただ、「焼きもの」説もまだあきらめたわけではありません。
じつは、村上海賊の全盛期(室町・戦国時代)よりも前の時代に、陶製の球体容器に火薬を詰めた武器が存在したのです。

それは、「てつはう(鉄砲)」と呼ばれる鎌倉時代に元軍が用いたとされる兵器です。

長崎県伊万里湾にある鷹島には鎌倉時代に元軍が攻め込みました。いわゆる「蒙古襲来」。
この史実を証明する遺跡であり、水中遺跡として全国で初めて国指定史跡となったのが「鷹島神崎遺跡」(長崎県松浦市)です。

鷹島神崎遺跡では2隻の沈没船が発見されるとともに、元軍が使用した爆弾とされる「てつはう(鉄砲)」も発見されました。「てつはう」が炸裂する様子が「蒙古襲来絵詞」に描かれていることから、その存在は知られていましたが、なんと複数個体の実物が発見されたのです。

私Kは、文化庁主催の展覧会『発掘された日本列島2017』で初めてこの「てつはう」の実物を拝見。ひとり大興奮で、ケース越しでしたがじっくり観察しました。
貝が多くついた表面はゴツゴツしていて、器壁は厚く、陶製の球体容器でした。
そして直径2㎝ほどでしょうか、一か所、穴があけられています。

そして球体の内部には、火薬とともに鉄片や陶器片が詰め込まれているそうで、確かにX線CTスキャンの画像を見ると、短冊形をしたそれらしき物体が確認できました。
導火線もその穴から伸びていたのでしょう。
爆発と同時に鉄片や陶器片が飛び散る・・・なんともおそろしい武器です。

写真は許可なく掲載できないので、展示図録に掲載された写真を参考に模式図を作りました。

じつは村上海賊ミュージアムで展示中の「ほうろく玉イメージ復元品」は、この「てつはう」を参考に、直径15㎝で復元しています。




「てつはう」の重さは約2キログラムだそうです。
2キロなら投げ飛ばせるか・・・いや、無理^^;

信長記の記述にみる
「ほうろく火矢というものをこしらえて(略)投入れ投入れ焼き崩し・・・」

この記述などから、ハンマー投げのようなイメージをもっていますが、それに限らず投石機のようなものを考えてもよいのかもしれません。

忍者もほうろく玉を使ったそうですが、展覧会などで見る忍者道具の復元品は、もっと小さく、片手で投げられるサイズ。テニスや野球のボールのような大きさです。実物資料が残っていれば面白いのですが、どなたか情報をお持ちの方はご教示ください^^


さて、この「てつはう」。
なんと陸上の遺跡ではまだ発見されていないそうです。
そして、時代を隔てた村上海賊の「ほうろく玉」との関係もいまはまだわかりません。

ただ、村上海賊の「ほうろく玉」も海底に沈んでいる可能性は無いとは言えませんね。
それに能島城外で作っていた可能性も検証しなければいけません(発掘調査された他の村上海賊関連遺跡でもまだ発見されていませんが^^)。

ほうろく玉は材質・構造、そしてどのように投げ込んだのか、多くの謎に包まれています。
焼きもの説、まだあきらめるのは早い!





2020年5月3日日曜日

ほうろく玉の謎 おうちで村上海賊‟Ⅿurkami KAIZOKU" №7

今治市内の民宿などで出される「法楽焼」・・・美味しそうですが、いまは我慢ですね。


この料理は、「ほうろく」という焼き物の大皿に鯛やサザエ、エビを盛り、もう一つのほうろくで蓋をし、蒸し焼きにしたものです。

二つの素焼きの器の口を合わせる・・・
そう法楽焼は、村上海賊の武器である「ほうろく玉」にちなんだ料理と言われています。
それを示す史料はありませんのであくまで伝承なのですが、新鮮な魚介類を豪快に盛って蒸し焼きにするその姿は、海賊の料理と言われても違和感はないでしょう^^


さて、今日の話題は「ほうろく玉」です。
繰り返しになりますが、村上海賊の武器として有名です。
「炮録」、「焙烙」などの字があてられますが、「信長記」には「ほうろく」と平仮名で記されています。

一般的には、陶器の中に火薬を詰め、ハンマー投げのように振り回し、敵の船に投げ入れる武器とされています。

ほうろく玉を使った海戦を再現した様子はこちら↓


※いつものお願いですが、画像の二次利用はご遠慮くださいね。以下同じです。

どうしてこのような姿が再現できるのか、というと一つは先ほど紹介した「信長記」の記述によります。

「海上者ほうろく火矢と云物を拵、御身方之舟を取籠、投入〱焼崩、多勢に被取籠不叶、」(『信長記』より) ※〱←くりかえしのこと、したがって「投入れ投入れ焼き崩し」

ざっくり言うとこんな感じでしょうか。

「海上では、ほうろく火矢という物を作っており、味方の船を取り囲んで、(ほうろく火矢を)くりかえし投入れて焼き崩し、多勢であったため、敵わなかった」


おそろしい武器ですね。
手りゅう弾のようです。


いわゆる通説を紹介してきましたが、謎があります。
それは「実物」が現存していないこと。そしてそれらしき焼き物が遺跡からも出土していないことです。


じつは、江戸時代の兵学者は必ずしも焼き物とは考えていなかったようです。


江戸時代後期の兵学者で砲術家の森重都由(もりしげ・すべよし)によって編纂された『合武三島流舩戦要法』という兵法書には、ほうろくと言っても「投げほうろく」と「ほうろく玉」があり、前者は「厚紙」、後者は「鉄・鉛」で作られた球体の武器と紹介されています。

これに陶器を加えると、ほうろく玉の材質は、紙・金属・陶器の三種類の説があるということになります。ミュージアムでは陶器と金属をイメージした模型を作って展示しています。




球体の中には、焔硝・硫黄・松脂・樟脳・炭を混ぜた焼薬(いわゆる「黒色火薬」というもの)を小玉に丸めていくつか詰め、その隙間にもこの焼薬を入れたといわれています。

したがって、中身はまっくろです。
ただ、それだとわかりづらいので、レプリカの断面には〇を描きました。

発注したときにKが作った設計図はこちら↓



ただ・・・
能島城跡の発掘調査では、このような球体の土器片や金属片は確認できませんでした。
出土した破片の数は7万点を超えますが・・・。

しかし、昭和初期に能島城跡の調査で発見された土器の解説には、「炮録團(ほうろくだま)が無数に発見される。」(鵜久森経峰著『伊予水軍と能島城趾』昭和14年)とあります。

ここで問題です。
当時は、生活につかうあるものの破片が「ほうろく玉」の破片と考えられていました。

そのあるものとはいったい何でしょう。


①鍋や釜

②すり鉢

③お茶碗

④徳利

K



2020年5月2日土曜日

こども向け村上海賊パンフ おうちで村上海賊”Murakami KAIZOKU” 番外

ゴールデンウィーク真っ最中!!

しかし、今年はどこにもお出かけできずとってもさみしいですね…😢


そんなおうちでのお休みのお供に…


お子さんと一緒に「村上海賊」はいかがですか?



休館中に楽しんでいただこうと始めた「おうちで村上海賊」ですが、どうしても内容が大人向けになってしまいます💦


そこで今回ご紹介するのは

今治市内の小学5・6年生向け出前講座用に作成したこちらのパンフレット。


日本遺産「村上海賊」パンフレット
(小学生向け)



全7ページで簡単に読めて、「日本遺産」と「村上海賊」のことがなんとなく分かる1冊!

当館のマスコットキャラクター「かげちかくん」と村上海賊コスチュームの「バリィさん」の夢のコラボです✨



中はこんな感じ。




「文字が多い!」「内容が難しい!」


と、何度もダメ出しをいただきながら作り上げた、Mの血と汗と涙の結晶…😢


ぜひお子さんと一緒にご覧ください😊

もちろん大人の方だけでも!



併せてご紹介したいのがこちらのパンフレット。

日本遺産「村上海賊」公式お守パンフレット



日本遺産「村上海賊」を構成する43件の文化財を網羅した1冊!

村上海賊巡りをするならどこ行く妄想に使えます😊

今治の方でも、意外と身近なところに村上海賊の足跡があることが分かりますよ!



ステイホーム週間に「村上海賊」パンフを読んでいただき、

外出自粛が解けたあと、今治&尾道、そして村上海賊ミュージアムに遊びに来てくださいね!!

みなさんにお会いできる日を楽しみに休館中のお仕事を頑張ります💪


M