2017年9月23日土曜日

特別展『村上海賊の城』~注目!「来嶋落城」と書かれた古文書【続編】~

以前のブログで紹介しました、
今回の特別展で展示しております、
「石谷家文書」
「来嶋落城」
と記された古文書。
















この手紙が出されたのは
1583年(天正11年)3月です。
「来嶋落城」とあるのは、
前年(1582年)、本能寺の変より少し前に、
それまで河野氏に仕えていた来島村上氏の村上通総が、
羽柴秀吉の勧誘を受けて、河野氏から離反しました。
それを受けて、河野氏と毛利氏(河野氏と友好関係)は、来島城を攻撃します。
来島城攻撃には、能島村上氏も前線に参加していました、
そして、攻撃を受けた来島城は、1583年3月に落城しました。

しかし、この時に秀吉に付くという決断をしたことが、
豊臣秀吉の時代に来島村上氏が大名となり、
江戸時代にも大名家として続いていくことにつながりました。
その後の来島村上氏の歴史を考えた時に、
まさにターニングポイントと言えます。














これまで来島城の落城について、
「一着」(一段落ついた)等のような表現で、
記している文書は、
これまでも知られていましたが、
「落城」
という生々しい表現が使われているものは、
「石谷家文書」

ではないでしょうか。

『村上海賊の城』という点からすると、
その部分がやはり注目されますが、
この古文書のその他の部分も、
非常に興味深いものです。

手紙が出された天正11年3月。中央の政治情勢を見てみると、
信長死後の主導権を争って、
羽柴秀吉柴田勝家が、
バチバチ火花をちらしている時期です。

今回展示している文書でも前半部分には、
羽柴秀吉滝川一益が交戦中であること、
それを後援するために柴田勝家が出兵したこと、が記されており、
後の賤ヶ岳の戦いにつながる合戦の様相を知ることができます。
ゾワゾワしますね!!

中盤には、織田信長の死後、京都への復帰を目論む足利義昭の、
中国・四国の軍勢を動員して、再上洛作戦を実施する、
との壮大な計画が披露されています。
ゾワゾワしますね!!

信長死後、頭角を現す羽柴秀吉
再上洛を目指す足利義昭の壮大なプラン。
この時期の目まぐるしい政治状況を知ることができ、
そうした時期に来島城落城したのだということを、
まじまじと感じることができます。

この古文書について考えているだけで、
ご飯が3杯くらい食べられそうなほど、
味わい深い史料です!

是非とも特別展でご覧下さい!!

               学芸員O