例年この時期はしまなみ海道がとっても賑わっていますが、同じ時期だとは思えない車通りの少なさ。
みなさんの外出自粛の賜物ですね😊
臨時休館中の村上海賊ミュージアムでは、普段は人の往来があって使えない広いスペースを活用し、未整理の書籍や写真などの資料整理を行っています。
作業中に資料を並べてるところは結構壮観です。
(虫干しも兼ねています)
さて、今回ご紹介する古文書はこちら!
文字数が少ない!!そして文字が読める!!
一応翻刻を載せておくと、
うん、まんまですね。「殿」が崩れているくらいですね。
いつものように整理すると、
❷日付:慶長18年(1613)5月21日 に
❸差出:毛利輝元 から
❹宛名:「村上源八殿」 へ送られた手紙
ということが分かります。
さて、❶本文は…
「加冠」「元」
以上!
み、短い……!!内容がないよう!!!
…と思われるかもしれません。
しかし、文章は短いですが、とっても大切なお手紙なんです。
最初に書かれている「加冠(かかん)」とは、男の子の成人式=「元服」です。
今は成人式といえば二十歳ですが、昔はもっと早い。
ここで出てくる「村上源八」は、慶長13年(1608)生まれ。
つまり、この時点でまだ6歳!
この手紙が書かれる3年前の慶長15年(1610)2月9日、源八郎の父・景親が53歳で亡くなり、兄・八助が跡を継ぎます。しかし、その八助も慶長18年(1613)3月21日に11歳の若さで早世……😢
次男の源八郎が幼くして家督を継ぐこととなったのです。
(「能島家系図」参照)
元服は、大人として社会デビューするための大切な儀式。
元服前は何もかぶらず頭頂部をさらしていましたが、元服で初めて「冠」(※武家では烏帽子)をかぶります。だから「加冠」。
大人になったら常に烏帽子をかぶっているのがマナー(頭頂部を晒していることは恥ずかしいこと)だったのが、この頃には廃れ、公式な場にかぶる程度になっています。
そして、「幼名」ではなく「実名(じつみょう)」がつけられます。
「実名」というのは、今でいうと「苗字」+「名前」の「名前」部分のこと。(ex「景親」)
昔は大人になって初めて名前がついたんですね。
ちなみに、「源八郎」というのは「通称」。今の大河で明智光秀が「十兵衛」と呼ばれているのも「通称」です。
ここで今回の書状の本文を思い出してください。
「加冠」「元」
差出人は「毛利輝元」でしたね。
「元」がついていますね!
この古文書は、元服をして実名を名乗るようになる「村上源八」に、主君である「毛利輝元」が自分の実名の一字「元」を与えるお手紙だったのです。
これ以降、「村上源八」は「村上元信」と名乗るようになります。
村上元信肖像画(個人・当館蔵)
このように、元服の際、自分の実名の一字を与え、その証拠としてその一字のみを書いて与えた文書のことを
「一字書出(いちじかきだし)」や「加冠状(かかんじょう)」
などといいます。
今回の古文書は書き始めが「加冠」とあるので「毛利輝元加冠状」と呼んでいます。
主君が家臣に対して自分の実名の一字を与えるということは、主従関係を結ぶ儀礼として、中近世を通じてよく行われていました。
これまで紹介した古文書に出てきた人でいえば、