正解……というのはないですが、気づいていただきたかったポイントを挙げていきます。
出てくる人物名と日付に注目!
というヒントを出していました。
先に簡単なので日付の方から見てみましょう。
- 「難波船軍図」…天正四年七月十五日
- 「村上元吉外十四名連署注進状」…13〜14日(※書状の日付は15日)
- 『信長公記』…七月十五日
合戦の日付が異なりますね。
ここで、もう一度それぞれの資料が「いつ」「誰に」書かれたか確認しましょう。
- 「難波船軍図」が書かれたのは江戸時代。
- 「村上元吉外十四名連署注進状」は、7月13日~14日早朝にかけての戦いの報告を2日後の15日にしたもの。差出は合戦に出ていた当事者。
- 『信長公記』は、織田信長の家臣・太田牛一が信長の事績を記した軍記。
「いつ」というのは、もちろん同時期に書かれたものである方が信憑性がありますし、
「誰に」というのも、書いたのが当事者である方が信憑性が高いですよね。
⚠︎同時期で当事者だからといって完全に信用していい訳ではないです。
ということは、この中では「村上元吉外十四名連署注進状」が一番信憑性が高いでしょう。
そのため、合戦が起きた日は13〜14日が正しいと思われます。
次に、人物名を見てみましょう。量が多いですね😅
3つの資料の登場人物をまとめてみましょう。
挙げようと思えばたくさん違いが見つけられると思うのですが、一番注目していただきたいのはこの方。
「村上元吉外十四名連署注進状」の記述でいうならば、左右に200艘余り配置させてる「勢楼」(=やぐら)を組み立てた大きな船……
絵図の織田方の中でも一番ボスっぽい船の近くにある名前「九鬼」
第一次木津川口合戦についてすでに知っていた方、『村上海賊の娘』を読んだことがある方は気づくかもしれません。
この「九鬼右馬允」=九鬼嘉隆、
実は第一次木津川口の戦いに参戦していないのです。
このように「難波船軍図」は合戦より後の江戸時代に描かれたものなので、多少実際とは異なる情報が含まれています。
しかし、実際とは異なる情報というのも、実際には合戦を見聞きしていない江戸時代の人にとって「第一次木津川口合戦」というものがどういう認識だったのか、何の情報を元にして描いたのか、ということを考える際にとても役に立ちます。
「難波船軍図」を寄託いただく際の調査で、この絵図の元になったであろう資料が見つかりました。(※当時Mはまだいません)
それが、同じく江戸時代に書かれた軍記物語『難波浦船戦記』。
気になる方はこちらの論文で翻刻されているのでご覧ください。
青木晃「海の合戦譚の兵法・語彙 ―付・『難波浦船戦記』 翻刻―」(『国文学』73号、1995年)
登場人物を見てみると…
完全に一致……!!!
織田方の布陣についても、「難波より住吉の岸に継いで一面に掛け並び」という表現がありますが、絵図もそんな感じですね。
ところで、村上海賊に関していえば、
能島村上氏の中では村上武吉の長男・元吉ではなく、いとこの景広が出ていますね。
同じく江戸時代(1804年)に書かれた『絵本拾遺信長記』にも、木津川口合戦の挿絵として、景広が織田方の船に乗っ取りを掛けている場面が登場します。
「古典籍総合データベース」で画像が見られます。
後世ではこんな感じで伝わっていたのですね。
さて、今回ご紹介した「難波船軍図」、現在休館中ですが、
企画展「さらば、村上水軍博物館~なぜ村上「海賊」なのか?~」
で展示中です。
終息後にぜひお越しください😀