先日おこなわれました水軍講座「海の城と山の城―今治の中世城郭―」。
60名ほどお越しいただければ万々歳だと思っていたところ、
それを上回る約70名の方にお越しいただけました。
ご参加いただきましたみなさま、ありがとうございました!
さて、水軍講座での私の報告では、
こちらの古文書に注目して、
海城と潮汐
について考えました。
古文書の本文を読み下してみます。
去る六月二十四日、甘崎要害に至り動(はたらき)の時、矢疵(きず)を被(こうむる)る<左足>の由、隆名の注進到来す。感悦(かんえつ)せしむ所の状、件(くだん)の如(ごと)し。
天文十年(一五六一年) 八月十二日 (花押[大内隆])
白井縫殿助(房胤)殿
※当日配布した資料では、古文書の冒頭が「去年」になっておりましたが、正しくは「去」です。
お詫びして訂正致します。
こちらの古文書、1561年6月24日の甘崎城での戦いのときに、戦国大名大内氏の水軍の一員である白井氏がよく戦ったとのことを、大内義隆から褒められているものです。
このとき攻められている甘崎城は、大三島の古城島という小さな島に築かれていた海城でございます。
←現在の甘崎城
江戸時代に藤堂氏によって築かれた石垣が残る
さて、このとき攻められていた甘崎城の、この日の潮汐(潮の満ち引き)はどのようなものだったのでしょうか?
海上保安庁HPの潮汐推算では、年月日を入力すると、その日の様々な地点での潮汐を教えてくれます。
戦国時代など、昔の年月日にも対応している優れものです。
昔は現在とは異なる仕組みの暦が使われていたので、甘崎城が攻められた1541年6月24日を現在の暦に変換すると、1541年7月17日(ユリウス暦)となります。
この年月日を海上保安庁HPの潮汐推算に入力します。
大三島の潮汐が分かればよいのですが、大三島は潮汐推算できる地点ではないので、大三島に近い因島土生の潮汐を調べてみます。
そして、この潮汐の曲線と現在の潮汐曲線が近い日を探してが、この日がどういった日(大潮とか小潮とか)に当たるのかを調べます。
こうした作業によって、この日が長潮であるとの結論が出されました。
長潮!!
長潮とは、潮の満ち引きの差が緩やかな状態だそうです。
潮流の防御性が最も意味をなさないであろう日に海城である甘崎城は攻められていたのです。
私は、ここまで調べて、やはり攻めるのも海で活動する水軍ということで、
潮の影響が少ない日に攻撃しているんだろうと考えておりました。
しかし、他の海城が攻撃された日も調べてみると、そうでもないことが分かってきました。
その海城は、中途城!
来島海峡にあった海城で、能島村上氏が小早川隆景に引き渡したことで知られています。
来島海峡急流観潮船に乗っていただくと、近くでご覧いただけます。
この中途城も、古文書から攻撃されている年月日が分かりますので、
先ほどの要領で攻撃された日の潮汐を調べていました。
すると、大潮の日に攻撃されている事例があるではないですか!!
その日は、和暦では天文15年(1546)8月15 日、ユリウス暦では1546年9月9日!!
大潮!!
最も潮流があらぶっている状態です!
来島海峡急流観潮船に乗ったり、博物館正面の能島水軍で潮流体験をする際には、
大潮の日をおすすめします!
瀬戸内海の複雑かつダイナミックな潮流をご覧いただけるでしょう!
私も大潮の日に来島海峡急流観潮船に乗りましたが、
中途城付近、来島海峡の潮流ははんぱなかったです!!
この潮流のなか、中途城を攻撃したのか!!
さすが、戦国時代の水軍!勇ましすぎる!!
潮流がゆるやかな日に攻めるんやないんかい!
どういうことやねん!
もしや、潮止まりのタイミングに攻め込んだのか!?
どうやら、海城と潮汐の関係は、私が考えていたほど単純ではないようです。
戦国時代の水軍の姿に迫るには、まだまだ時間がかかりそうです。
とりあえず、海城が攻められた日と同様の潮汐の日を調べて、海城の近くで一日中海の様子を観察したいです。
それではまた!
学芸員O