さすがは四国を代表する戦国大名、長宗我部氏の城ですね。土塁、堀切、竪堀などの防御施設が発達した立派な山城です。
写真奥が岡豊城の二ノ段、詰(主郭)あたりです。
曲輪(くるわ)、堀などの岡豊城の特徴を聞きながらの移動です。発掘現場を見る前に、城の概要が現地を見ながら理解できたので良かったですね。
上の写真は、四ノ段下の斜面と、その裾に沿ってめぐらされた「横堀」です。この急峻な斜面は「切岸」といって、簡単に登れないようにわざとこのようにしているものです。
中と下の写真は「竪堀」。斜面を谷のように溝が走っているがわかりますでしょうか?斜面に沿って、敵が簡単に横移動できないようにするなどの効果があるそうです。これがまるで畑の畝(うね)のように何本も連続しているものを「畝状竪堀」(うねじょうたてぼり)などと言います。岡豊城の斜面は竪堀だらけ。圧巻でした。
このような岡豊城の説明を受けながら、発掘現場に向かいます。初めての方でも城の特徴がよくわかるような説明をされていて、能島城の見学会を行う時の参考になりました。
発掘現場を上からみたところ。伝家老屋敷跡では、3棟の掘立柱建物跡や、入り口部分では、門の跡と考えられる柱穴が発見されたそうです。出土品は、16世紀後半、まさに長宗我部元親の時代のものが多く出土したそうです。一番多いのはかわらけの皿で、それに中国銭を入れた“地鎮”の可能性がある遺構も発見されたそうです。能島城でも4か所で地鎮の可能性がある遺構が発見されているので、比べながら興味深く見学しました。
発掘調査現場と見学者のようす。奥は切岸になっていて、その上は平場になっていました。先ほどの写真はこの切岸の上から撮ったものです。そして、切岸の手前に接するように、3間×3間の大きな掘立柱建物跡が発見されたそうです。
担当者の方から、面白い仮説が提示されました。この掘立柱建物が実は2階建で、なんとその2階からこの切岸の上に向かって通路がつけられていた、つまり、建物を利用した登城路が作られていた、という実に魅力的な仮説です。
とても面白い発掘調査の成果を生で見ることができて大変満足でした。
能島城は同じ中世のお城でありながら、土塁も、堀切も、竪堀もありません。ほんとに簡素な縄張り(城の防御施設の配置のこと)なんだなと、改めて思いました。(K)