2012年11月15日木曜日

来嶋・久留嶋・来島・久留島

どれも「くるしま」と読みますが、表記はさまざま。なぜ?


特別展のタイトルを見て、なんのこっちゃと思われた方も少なくはないでしょう。

『海の来嶋・山の久留嶋来島村上水軍から近世大名久留島家へ-』

特別展のタイトル



「ちょっと学芸員さん、漢字が間違ってるよ。」とお客さま。

混乱の原因は、見慣れない「嶋」の漢字が使われている点にあるようですが、じつは古文書の表記が、もともと「来嶋」なのです。久留島家文書の実物をご覧になって、お客さんも納得されたようすでした。

豊臣秀吉朱印状をみると、村上通総のことを「村上助兵衛尉」と書かれているものもある一方で、「来嶋助兵衛尉」、「来嶋兄弟」、「来嶋出雲守」と書いているものが目立っています。

そして、通総の息子で、豊後森藩初代藩主の康親は、「村上」ではなく、「来嶋」の姓を使うようになります。さらに、2代藩主の通春は、姓を「久留嶋」に改称します。じつはこの時の島も古文書では「嶋」なのです。

※「久留嶋」と書かれている古文書は、今回は展示しておりません。
『今治郷土史 資料編 古代・中世』に写真が掲載されています。


久留嶋に改姓した明確な理由はわかっていませんが、古くから言われる説を紹介すると、豊臣大名であった過去を断ち、新たに出発することを幕府に示した、あるいは豊後森の地にしくまるといった決意の表明であったと言われています。

現ご当主の姓である「久留島」が使われ始めたのは、厳密にはわかっていませんが、明治時代以降と思われます。また、最近では、「来村上水軍」という用語もしばしば使われるようになり、もともと古文書で使われていた「嶋」は、一般的には使われなくなりました。

こういった姓の変遷や、古文書の表記と一般的な使い方との違いを強調するために、あえて、4種類の表現をタイトルで使いました。ぜひ本物の古文書をご確認ください。(K)